イングランドの捜査官たち

 六百五万。この数字は、二〇二一年の警察に報告のあったイングランドおよびウェールズにおける犯罪の総数を指している。ミラ・トウドウは、イングランドの刑事だ。ミラの無線には、今この時も犯罪についての情報が飛び交っている。この件数は、ミラの出身国である日本の同年の犯罪件数に比べると、およそ十倍となる。
 警察署でミラは無線の電源を落としてしまいたい気持ちをグッと堪えた。ミラは先日起こした自身の不手際の始末書を書いている真っ只中であった。今月で始末書を書くのはたしか五回目だ。いや、六回目くらいだったかもしれない。ストレスでいつの間にかシワだらけになってしまった始末書を前にしたミラは、溜息をつく。そして、ボールペンを手から滑り落として、自分の机から立ち上がった。
 「少し、出てくる」ミラは隣に座っている赤毛の刑事に声をかけた。
 「おいおい、ミリー。始末書は書き終わったのか?」赤毛の刑事はパソコンに何かを打ち込みながらミラを見て言った。
 「終わっているわけがないだろう」ミラは当たり前といったような顔をして答える。「気分転換だよ。フレディ」
 フレディ──フレッド・ウィーズリーはミラが長年ツーマンセルを組んでいる相棒だ。フレッドはパソコンから視線を外すと、ミラの傲慢な態度を前に頭を掻きむしって項垂れた。
 「君のせいで現場に出れてないんだぞ」フレッドは目を細めて言う。「少しはしおらしく・・・・・できないのかよ」
 「刑事がしおらしく・・・・・なったら終わりだろう?」ミラはニヤリと笑った。「すぐ戻ってくるさ」
 フレッドが溜息をついた。彼のげんなりとした態度は無理もない。フレッドは現場を駆け回ることを生き甲斐としている正義感に溢れる刑事だったからだ。それでも、ミラが罪悪感を抱かないのは理由がある。彼の正義感はただの正義感ではない。フレッドは自身の正義感を楽しんでいる節があった。度が過ぎた──犯人、そして自分自身をも試すような──逮捕劇と捜査を繰り返しては周りを困らせていた。ミラが不手際を起こして署内に缶詰にされたとき、決まってフレッドはオモチャを取り上げられた子供のように拗ねてしまう。問題児同士のツーマンセル、それがミラ・トウドウとフレッド・ウィーズリーであった。
 「ホワイト捜査官によろしく」フレッドはあきらめたようにミラへ手を振った。
 「お見通しってわけだね、相棒」
 ミラはフレッドに背を見せたまま手を振り返して、部屋の外へと歩きながら自身の髪を頭上で固めに結い上げた。これから向かう先──科学捜査研究所は髪の毛を一本たりとも落とすことが許さない場所だからである。ミラが落とした一本の長い黒髪をつまみあげたときのホワイト捜査官の顔は、できるたけ見たくない。
 エラ・ホワイト捜査官は、ミラが昔からお世話になっている科学捜査官だ。いつも研究所にこもっていて、なにやらミラにはわかりかねる作業をしている。ミラよりも立場が上の、もっと大きな事件を扱う刑事を助けるのが彼女の仕事だ。
 ミラはエレベーターに乗ると迷わず科学捜査の研究室がある地下へのボタンを押した。エレベーターが揺れて、そのまま降下していく。しばらくすると、エレベーターがチンッと音を立てて、扉が横へ開いた。薄暗く肌寒い廊下が続いている。ミラはこの廊下が少し苦手だった。
 「ジャケットを持ってくるべきだった」
 ミラはそう独り言をつぶきながら廊下を歩いて、研究室の扉の前にきた。それから、ノックもせずに遠慮のない手つきで分厚く重い扉を開いた。
 「こんにちは。ホワイト捜査官はいらっしゃいますでしょうか」
 ミラの堅苦しい、日本人特有な回りくどい英語が研究室へと響き渡る。その声につられて、部屋の奥から灰色髪の美しい女性が白衣姿で現れた。
 「あら、ミラじゃない。こんにちは」白衣の女性は一つにまとめた灰色髪を揺らすと、弾むような声でミラを出迎えた。
 「こんにちは、ホワイト捜査官。今、忙しい?」ミラが言う。
 「今ちょうど──本当にちょうど落ち着いたところだわ。好いタイミングね」ホワイト捜査官は微笑んで言った。
 「それはよかった、エラ」ミラも微笑みを返して答える。「ちょっと、捜査が行き詰ってね。その気分転換に」
 「まあ」エラの柔和な笑みはクスクス笑いにかわる。「あなた自身の不手際の捜査を、自ら担当しているのね?」
 エラの言葉に、ミラが顔はみるみると真っ赤になっていく。全てがお見通しだったことがわかったミラは両手をあげて降参のポーズをした。
 「やだなあ。知ってたのか」
 「始末書の達人の話はここでも大人気のお話ですもの」エラは相変わらずクスクス笑っている。「今、コーヒーを入れるわね」
 そう言ったエラはビーカーを棚から二つ取り出して、そこへミラとエラ自身の分のコーヒーをなみなみと注いだ。この光景には最初こそミラはギョッとしたが、今ではもうすっかりと慣れてしまった科学捜査官のもてなしだった。
 「さっきまで、なにをしていたんだい?」ミラはコーヒーを飲みながらエラに聞いた。
 「今日は毒殺の事件だったの」エラはうんざりしたような顔をした。「シリウスったら、たった一時間で毒物を特定しろって言うのよ?いったい何種類あると思ってるのよ!」
 エラの愚痴に、ミラは思わずビーカーを傾ける手を止めた。恐る恐るにエラを見上げると、彼女と目が合う。エラは肩を竦めて、またビーカーに入っているコーヒーをあおった。
 「その分析は…ここで?」ミラの声が少しばかり低くなる。
 「ええ、もちろん」
 エラはなんのこともないように答える。しかしミラに衝撃を与えるには十分な一言だった──ミラは口に含んでいたコーヒーをひと思いに噴き出した。
 「やだ!ミラったら、もう」
 エラは慌ててどこからか布巾を取り出して、机に広がるコーヒーを急いで拭いた。それからエラはミラのワイシャツにべったりとしみついた茶色い染みを見ると、どうしようもないと言いたげに息を吐いて笑った。
 「す、すまない、エラ」
 ミラはせき込みながらエラへと謝り、コーヒーの入ったビーカーを流し台へと恐々とした様子で置いた。
 「あら、もういらないの?」エラは言う。
 「あ、ああ。なんだか急に──コーヒーの気分じゃなくなってしまったみたいだ」
 「そうなの? 」エラは心底残念そうな声色で言った。「せっかく、いい豆を見繕ったのに……」
 エラはなんのこともないように──さっきまでまさにこの場所で毒物の分析をしていたことなど何も気にしていないかのようにビーカーを揺らして、コーヒーを飲み続けている。そのエラの様子に、ミラは思わず目がこぼれて落ちてしまいそうなほどに開いて凝視した。ミラの表情に気づいたエラは、怪訝な顔をしてミラを見つめ返す。ミラは慌てて咳払いをして、誤魔化すための話題を必死に考えた。
 「ブラック刑事のことだけど」ミラが思いついたように話を無理やりに戻す。「うちの部署でも皆言ってるよ。彼は人遣いが荒くてたまらないってね」
 「やだ、あの人ったら。そうなの?」エラが困ったような顔をしたが、同時にブラック刑事の話への興味を隠せていない様子だった。
 「そうだよ」ミラは話を取り繕ったことなどすぐに忘れて肩を落とした。「私やフレッドみたいな新米刑事にも、あれやれこれやれとうるさいんだよ」
 「ひどいわね。ブラック刑事って」
 エラが依然として浮かべていた困り顔に、微かに笑みが滲み出た。ミラはお構いなしに愚痴を続けようとした。だが、気づいてしまった。エラの目線がミラではなく、その背後へと向けられていることに。ミラは嫌な予感がして、素早く後ろを振り返ると、そこにはシリウス・ブラック刑事が壁に寄りかかるようにしてニヤニヤ顔で立っていた。
 「やあ。トウドウ刑事」ブラック刑事は壁から体を離すと前髪をかきあげて、含み笑いをした。「いつもひどいが、今日は一段とひどい恰好だな」
 「ブ、ブ、ブラック刑事!
 ミラは慌てて椅子から立ち上がる。ほとんど反射的に敬礼をしてから、自身の茶色い染みが広がったワイシャツへと気まずそうに視線を移した。エラのクスリとした笑い声が聞こえてくる。ミラは顔面に愛想笑いを無理やりに貼り付けてブラック刑事へ続けた。
 「お疲れ様です。ええと、そうですね。お蔭様・・・で」
 ミラは目だけを動かして意味深々にエラを見た。
 「それはお手柄だな?ホワイト捜査官」
 ミラの態度に何かを察したブラック刑事がエラへと笑いかけると、エラの頬が少しだけピンクに色づく。ミラは知っていた。二人が恋仲であること、またそれが秘密の関係であることを。
 ──なあにがホワイト捜査官だ。ミラはブラック刑事を一瞥すると心の中で舌打ちをした。先ほどエラが話していた毒殺事件の鑑定結果について質問を重ねるブラック刑事の表情は捜査官そのものであったが、ミラは彼の視線と表情に時折愛おしさが浮かび上がっているのを見逃してはいなかった。
 「なにか、我々・・に言いたげだな?トウドウ刑事」
 ブラックがミラの視線に何かを察したのか、腕を組みながらミラを見下ろした。
 「い、いいえ何も」ミラは思わず上擦った声をあげる。「私はこれで失礼します。エラ、また今度お話しよう。できれば毒殺事件以外のときに」
 エラは今日何度目かの困り笑いを見せて、ミラとブラック刑事を交互に見てから頷いた。ミラは体を翻し、研究所の扉に手をかける。
 「ああ、そうだ。トウドウ刑事。君の相棒に伝えておいてくれ──」ブラック刑事がミラの背中に話しかけた。「現行犯逮捕したヤツはもっと健康なまま連れてこい、とな」
 「ぜ、善処します。ブラック刑事」
 ミラは顔を申し訳程度にブラック刑事に向けてから答えると逃げるようにして研究所を後にした。

 「へえ。俺にそんなことを?優しいこった。ブラック刑事様は」
 自分の部署に戻ったミラは、さっきまであった出来事を洗いざらいにフレッドに話していた。
 「まさかブラック刑事と出くわすとはね」ミラは声をできるだけ小さくして言った。「でも、そんな言い方をするなよ。うちの稼ぎ頭だぞ」
 「そうだったか?」フレッドが肩を伸ばしながらのんきに答えた。「なんにせよ、うちの相棒にも少しは稼いでもらいたいもんだ。始末書ばかり書いてないでさ」
 「いつだって責任は半分だろ?相棒。私の不手際は君の責任でもあるんだぞ」
 ミラは横目でフレッドをチラリと見ると書きかけの始末書を前にボールペンを手に取った。
 「嫌なやつ。帰ったら覚えてろよ」
 フレッドは座ったまま、ミラへと体を寄せた。ギィ、と椅子が短く音を立てる。それから、フレッドはなるべくこっそりとミラの頬を優しく撫でた。ミラはくすぐったそうに身をよじらせて悪戯っぽく笑うと、お返しにフレッドの頬を軽くつまんでやる。目尻の下がったフレッドの顔と、さきほどのエラを見つめるブラック刑事の顔が少しだけ重なる。なんだか自嘲気味な気持ちになってしまったミラは、目を伏せて吐き出し笑いをした。職務の傍らに愛を育んでいるのはエラ捜査官とブラック刑事だけではない。しかしその全てのことを他の捜査官は知る由もない。

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