ふたりきりの居残り課題

 ホグワーツの地下牢はどこよりも寒く、不気味だ。だがその中にある「魔法薬学」の教室はもっと不気味なところだ。薄暗い教室の壁には瓶詰めにされた生き物をはじめ、よくわからないものたちが並んでいる。その理由から好き好んでこの教室に近づく生徒は少ない。だが、グレース・クーパーは違う。彼女は数少ないうちのひとりの生徒だった。
 グツグツ、グツグツ……。しんと静まり返った部屋に、なにやら禍々しいような音が響いている。──コポコポ……、また音がした。
 ウーム……。グレースは教室の机に置かれた調理台の鍋を睨んで、ひとり唸った。脇に置いていた教科書のページをめくる。そして、また唸った。
 「私の調合がうまくいかないのは、きっと君のせいだな?」
 グレースが鍋を見つめたまま、調合の手を止めることなくハッキリと言った。教室にはグレース以外の人影は見当たらない。だが、グレースは気づいていた。
 ガタン!ガタン!──教室の入り口のほうで何かが崩れる音がする。
 「なにも取って食いやしない」グレースは依然として視線を鍋に向けながらもニヤリとした。「入ってこい。そこにいられると、気が散るんだ」
 「ご、ごめんなさい……」
 魔法薬学の教室に、女の子の弱弱しい声が隙間風のように入ってきた。その声を合図にするかのようにグレースは杖を振って、鍋にかけていた火を止める。そして、教室の入口へようやく振り返った。
 「──犯人はきみか。エラ・ホワイト」
 エラ・ホワイトは教室の扉の陰からひょっこりと顔だけを出してこちらの様子を伺っていた。グレースの二つ下の学年の生徒だ。灰色髪の、透き通るような雰囲気の女の子だった。
 「クーパーさん、ごめんなさい……」エラは今にも泣きだしそうな顔をしている。「気を散らせるつもりはなかったんです」
 「冗談だよ。そんなにかしこまるな」グレースは言った。「おおかた、私が怖くて入ってこれなかったのだろう?」
 エラは勢いよく首を振ったが、瞳には恐怖の色が滲んでいた。わかりやすい子だ。グレースはフッと笑ってエラにまた話しかけた。
 「今日はあの悪戯小僧と一緒じゃないのか?」
 グレースの問いかけに、エラはばつの悪そうな表情を浮かべる。
 「シリウスのことですか?」エラが言う。
 悪戯小僧、シリウス・ブラックもまたエラと同じグレースの二つ下の下級生だ。シリウスは何が気に入ったのか、日ごろからグレースとグレースが率いる「グレース軍団」にちょっかいをかける。グレースにとっては少し・・困った後輩であった。
 「あの実は……今日の、魔法薬学の授業で、私、あんまりうまくできなくて……」エラはつっかえながら説明した。「私だけ居残りの課題があるんです。シリウスは、今きっと、ジェームズたちと……」
 「そうか、それならば……私と同じだな」
 エラの言葉を待たずにグレースが歯を見せて笑う。エラはグレースが居残り課題など意外だと思ったのか、驚きを隠せない態度でグレースを見つめた。
 「そこの調理台が空いている。さあ、おいで」
 グレースが手招きをしてエラを呼ぶ。相変わらず怯えていたエラだったが、グレースの優しい声色につられるように教室へと入ってきた。足音が立たないくらいにゆっくりと歩いてきて、グレースの隣の調理台に向き合った。
 「さっさと終わらせてしまおう。お互いにな」
 グレースがワイシャツの袖をまくって、杖を振った。ボウッと音がしたと思うと、グレースの鍋に再び火がついた。エラも、グレースを真似するように腕まくりをして脇に置いた「ハナハッカ」に手を伸ばした。
 それから二人は各々の鍋に向き合って、魔法薬の調合に集中した──そうしたかった。だが、残念ながらグレースの集中は続かなかった。隣にいるエラが事あるごとに何かを喚くからだ。「あっ」だの「ちょっと」だの、「どうして」だの……。だんだんグレースの体にふつふつと笑いがこみあげてきて、ついに我慢できずに噴き出した。突然のことに、エラは肩を飛び跳ねさせてグレースを見る。
 「すまない、エラ……」
 グレースは自分の顔を手で覆って震えだした。腹をヒクヒクと引きつかせ、できるだけ笑いを堪えようとした。
 「こればかりは、本当に気が散る。まだ入口で右往左往してもらってたほうが良い」
 「ご、ごめんなさい!私、またクーパーさんの気を散らすようなことをしてしまいましたか?」
 気づいていないのか!そう思うとグレースはもう限界だった。顔をさっきよりも大きく隠して、調理台に手をついたまましゃがみこんでひと思いに大爆笑をした。まったくもって状況が飲みめていなさそうなエラは、かがみこむグレースを見て心配そうな表情を浮かべている。グレースはひとしきり笑ったあとに、ようやく立ち上がって瞳に溜まった涙を震える指先ですくい取った。そして自身を仕切り直すために肺の底から溜息をつくと、エラの傍らへと近づいた。
 「大丈夫だ。気にしないでくれ…」グレースはエラの鍋を覗き込んで言う。「で、何を作っていたんだ?」
 「えっと、『ウィゲンウェルド薬』です」エラはまだ少し困ったような顔をして言った。
 「そうか。それなら、かき混ぜているときの色の変化はきちんと見ているか?数回変わらなければ、やり直しをしなければいけない。手本を見せてやろう。『ハナハッカ』はあるかな?」
 エラは慌てて「ハナハッカ」を手に取り、グレースに差し出した。しかし、グレースは受け取ることはしなかった。温室からそのまま持ってきたのだろうか、エラが渡そうとした「ハナハッカ」は土まみれで汚かったからだ。グレースは土や泥のような汚いものが大嫌いだった。
 「ああっと……すごい汚いな…」
 グレースは吐きそうな顔をして言う。エラはどうしてそんなに嫌な顔をするのかわからないといったふうに「ハナハッカ」とグレースを交互に見たが、そのあとにグレースの調理台に目を移すと何か納得したような、不思議がるような複雑な顔をした。グレースの調理台に置かれている材料たちは全て土も泥も拭われている綺麗なものだったからだろう。そしてこれが「グレース軍団」の「兵隊」たちが、温室から持ってきた材料を全て綺麗に洗い流したものだということにも気づいたに違いない。
 「不思議か?」グレースはエラの視線を追って言った。「どうして私の『兵隊』がここまでするのかと」
 「そんなことはないです!」エラは恐れながらに手を振り乱した。「クーパーさんはいつでも完璧だもの。シリウスも言ってました。非の打ち所がないやつほど、腹が立つものはないって」
 「ほう」グレースはニヤリ顔を広げた。「つまり?エラもそう思っているわけだな?腹が立つと?」
 「ク、クーパーさん、誤解です!そういうわけでは!」エラが目をギュッとつむって叫んだ。
 純粋で、からかいがいのある子だ。グレースはそう思って、エラの顔を見つめた。ゆっくりと目を開けたエラがまた怯えたような顔をした。
 「今更だが、グレースでいい」グレースが目を細めた。
 「そういうわけには……」エラが戸惑ったような声で答える。
 「いいや、グレースで決まりだ。この私がそうしろと言っている」
 グレースは普段「兵隊」たちに見せているような表情をチラつかせた。エラが小さく頷いたのを見ると、グレースが今度は悪戯っぽい顔になった。
 「君は、私が完璧だと言ったね?」
 「は、はい」
 「腹立たしいことに、非の打ちどころがないとも思っているわけだ」
 グレースが肩眉をあげて、少しだけ挑発的な目つきになった。それがエラにも伝わったのだろうか。それとも、グレースとの会話に慣れてきたのか。エラも少しムキになったような顔をしてグレースに続けた。
 「そうじゃないですか。クーパーさん…いえ、グレースさんはいつも皆に慕われていて、成績も優秀で……」エラは夢中になって話し続けた。「これが完璧ではなくては、なんなんですか?」
 「その通りだ、エラ。私は完璧だ。完璧・・でなければいけない」グレースはこめかみに指を当てながら言った。「完璧だからこそ、皆忠誠を誓う。完璧だからこそ、私に命を預けるのだからね」
 エラはグレースが何が言いたいのか、わからないと言いたげな表情だった。しかし、反対にグレースにとってエラの言い分は予想通りだった。
 「私は『兵隊』たちの期待に常に応えるためにこうやって先回りの授業を独りで行わなくてはいけない。彼ら・・がいるからこそ、私は常に完璧なんだよ」グレースはまたフッと笑った。「きみにもあるんじゃないか?誰かのためにと、強い気持ちになることが」
 エラはそれに対して何も答えなかった。だが、彼女の目の色がはっきりと変わるのをグレースは見た。これもグレースの予想通りだった。いや、こうであるはずだと期待していた。エラ・ホワイトは一見引っ込み思案で、「悪魔」と呼ばれる上級生を前にしては言葉が詰まってしまう。そんな女の子だ。しかしグレースは、彼女の中にしっかりと根付いている一本の強い芯を見逃してはいなかった。でなければ、こんな話を彼女にはしない。やはりエラは私が好きな部類の人間だ──シリウスが彼女のこと大事に思うのもよくわかる──彼女のそういう一面・・・・・・を思いのほか早く見れたことにグレースは嬉しくなってエラの頭を撫でた。
 「さて、話が逸れてしまったな。『ハナハッカ』を洗ったら、今度こそ教えてやろうか」
 グレースが今までにないくらい優しい声色でエラに話しかけた。グレースの思いをなにかしらは感じ取ったのか、エラももう怯えたような態度を取らなかった。それどころか、何かに気づいたような顔をすると、嬉しそうに含みのある微笑みを広げてグレースにこう言った。
 「グレースさん、あなたはさっき『先回りの授業』をしなければならないと言っていたけれど……。これは、居残り課題じゃなかったの?」
 「おっと、するどいな。ミス・ホワイト?」
 グレースはエラについた嘘を封じ込めるように人差し指を口元に持ってくると、悪戯っぽくニヤリとした。

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