大切なもの

 三月上旬のホグズミード村には肌寒い日々が続いている。しかし、春寒が残る冷たい空気の中には何やら芽や花のにおいが交ざりつつあり、春は確実にすぐそこまできていることを知らせてくれていた。
 ホグズミード村を入って少し歩くと嫌でも目につく派手な建物がある。かつて「ゾンコの悪戯専門店」だったその建物の看板には「ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ――ホグズミード店」と記されていた。
 ウィーズリー・ウィザード・ウィーズ――通称「WWW」に「ゾンコの悪戯専門店」が買収されてから十年以上は経っている。今や、ホグワーツ生徒にとっての悪戯のシンボルはWWW製品一択であった。毎週末、「WWW」はそんな悪戯好きの生徒たちで溢れかえっている。今日、この日もそれは例外ではなかった。
 活気のある賑わいで溢れかえる建物の二階の奥には、ひっそりと静かに佇む扉があった。悪戯グッズに夢中な生徒たちは気にも留めたことはないが、その扉は小綺麗な英国式のリビングへと繋がっていた。
 「ねえ、ママ。マグルの写真は動かないって本当かい?」
 リビングの棚に並んでいる複数の写真立てを見つめていた少女は、ふいに母親の顔に視線を移して訊ねた。
 少女の名前はサクラ・ウィーズリー。今年、ホグワーツ魔法魔術学校への入学を控えている魔女の卵だ。隣にいる母親のミラ・ウィーズリーが、サクラの話にお茶を飲む手を止めて湯飲みをテーブルに置いた――英国式のリビングには似合わない、日本で作られたゴツゴツとした湯飲みだ。
 「うーん、そうだね」ミラは少し困ったような顔をして言う。「写真立てに入れるような写真は動かない。少なくとも今はね。電子機器では動いた写真も撮れたりはするんだけど――」
 「今はって、これからは私たちと同じになるってこと?」
 サクラは首を傾げた。目をまんまるにして、疑問をそのままこぼした表情になる。
 「そうね。マグルは手先がとっても器用で、それに賢いから」ミラはゆったりとした声で言う。「それに、日本の技術は特に素晴らしいんだよ」
 サクラはミラの回答に、合点がいったような顔になる。表情がコロコロと変わる娘のさまを見たミラは、愛おしさにクスリと笑いをこぼして、サクラの髪を撫でた。
 「ところで、ずっと気になってたんだけど」サクラはされるがままに髪を撫でられながら続けた。「どうして昔のママはいつも頭にメガネをつけてるの?」
 サクラの視線の先は、いくつかの写真立てに向いていた――どれも学生時代のミラが写った写真だ。「カナの輪」の仲間たちとの集合写真や、親友のアダリン・ロイドがクディッチで大活躍した日の二人の記念写真、ウィーズリーの双子の兄弟に悪戯されて頬が風船のように膨らんでしまっている痛々しい写真もあった。ミラはそれらの写真立てからひとつだけを手に取って、娘の前へと近づけた。
 「これはね、エンジニアゴーグルといって――マグルの職人がつけているものなんだ」
 ミラは写真の中で手を振っている自分に視線を落とすと、ゴーグルの部分をトントンと指で叩いて続けた。
 「父からもらったものだ」
 「おじいちゃんからの、プレゼント?」サクラが意外そうに答えた。
 「ウン。私がサクラよりまだ小さかった頃のね」
 「大切なものだった?」
 サクラは興味津々といったふうに矢継ぎに質問を続ける。好奇心旺盛な娘の態度にミラの目尻は下がり続ける一方だった。
 サクラの姿と、かつて同じく十歳だった自分が重なる。私も、こんな感じで母の昔話をせがんでいたっけ。自分の娘にこんな顔をして訊ねられたら洗いざらいを話してしまいたくなるというのに、それでも口を割らなかった母は本当に『悪魔』だった。母親、グレース・トウドウの恥ずかしい過去を思い出したミラは彼女を心の中で揶揄してニヤリとした。
 急に黙り込んだ母親の様子を不思議そうにサクラは見つめる。それに気づいたミラは慌てて会話を続けた。
 「もちろん、肌身離さず着けていたよ。父は私が十四歳のときに死んでしまったから、形見のようなものでもあったしね」
 「じゃあどうして今は着けてないのさ?」サクラは片眉をあげると目の前で腕を組んだ。「どこかにしまっているとか?」
 サクラの言い分に、ミラは切なそうな、しかしどこか嬉しそうな表情を浮かべる。ミラの複数の感情が交じっている顔を見たサクラはさっきよりも一層に大きく片眉を動かした。
 ミラはフッと笑うと、存在しないゴーグルをまるで今も着けているかのように頭上に手を当てがった。ゴーグルを触るのは学生時代のミラの癖のひとつであった。
 「残念ながらこれはもう手元にはないんだ。サクラ」ミラが言う。
 「どうしてだい?」サクラが悲しそうな声色で言った。「大切なものなのに、なくしちゃったの?」
 「壊れたんだよ」ミラは肩まで揃えた黒髪を揺らして答える。「もっと・・大切なものを守ったときにね」
 「もっと・・大切なもの?」
 「――お呼びかな?ウィーズリー夫人」
 ミラはサクラに答え合わせをしようとしたが、背後から伸びてきた何者かの腕に捕らえられて、言葉を遮られてしまった。突然抱き寄せられたミラは驚いて肩を跳ね上げさせる。
 「フレッド!?い、いつからいたんだい?」
 ミラは顔だけを後ろへ振り向かせると、首元に絡みつくフレッドの腕に触れた。
 「うーん、いつからかな。きみが『フレッドは世界一ハンサムな旦那さんだ』って言ったあたりからだったかも」フレッドはニヤリとした。
 「そんなこと、一言も言ってないが……」
 ミラが呆れ笑いを浮かべると、フレッドは満足気な顔をする。それからミラの顎に手を添えて、そのまま自分の口元まで持ってきてキスをした。
 「うげえー、やめてよ。娘の前で。恥ずかしい!」サクラが目をギュッと瞑って叫んだ。
 「言うようになったな?サクラ」
 そう言ったフレッドは、ミラから体を離す。すぐにサクラを抱きかかえて、彼女の身体中をくすぐった。
 「やだもう!くすぐったいってば!パパ!」サクラは目に涙を浮かべて叫んだ。
 「もう。そこまでにしておきなさい」ミラは息を吐いてフレッドに言う。「店は?落ち着いたのかい?」
 「ああ。あとはもう従業員だけでじゅうぶんなくらいにね」
 フレッドはサクラを抱きかかえたまま、ウィンクをした。
 「ねえパパ?」サクラがフレッドに抱えられたまま言う。「ママのゴーグルよりもとっても・・・・大切なものって、パパのことなの?」
 サクラの言葉にミラとフレッドは顔を見合わせて含み笑いをする。
 「情けないから、あんまり聞かせたくないんだけどな」
 フレッドは抱えていたサクラをおろすと、気まずそうに頭を掻いた。
 「レヴィオーソ! 浮遊せよ!
 ──どこからか、あの時の自分の声が聞こえる。
 一九九八年、五月二日。ホグワーツで起こった、ヴォルデモートとの最終決戦。不死鳥の騎士団に属していたミラとフレッドは、お互い遠く離れたところを防衛していた。
 ミラは信じていた。フレッドが死ぬことはないだろうと。その信念のもと一人で戦い続けていた。しかし、ホグワーツ城が揺れ、周りの壁が崩れ出したときに何かとても嫌な予感がした。目の前の死喰い人デスイーターを跳ねのけ、ミラはホグワーツの防衛をそっちのけにしてフレッドを探し続けて駆け回った。走って、走って、ようやく見つけたフレッドは今まさに瓦礫に押しつぶされそうな瞬間であった。
 「レヴィオーソ! 浮遊せよ!
 その光景を見たミラは無我夢中に呪文を叫んだ。浮遊呪文は成功し、瓦礫はすんでのところでフレッドの目前で止まった。フレッドがその場から離れたことを確認すると、次にミラが爆破の呪文を唱えた。瓦礫はその場で砕け散ったが、飛んできた瓦礫の破片のひとつが、ミラのゴーグルを破壊した。
 ミラは記憶を掘り起こしたが、口にはしなかった。夫のフレッドも同じだ。
 「ねえ、何があったのさ!?」
 黙り込む両親へ、サクラが気に食わないといった顔で腰に手を当てて叫んだ。
 「まあ、そのうち話すよ」ミラが笑って言った。
 「そうだな」フレッドも笑う。「それよりもサクラはこれからのことを考えたほうがいいな?」
 「ホグワーツの話?」
 サクラの目が輝く。「ホグワーツ」という言葉を聞いた途端に、今までの話のことなどどうでもよくなってしまったように満面の笑みを浮かべている。
 「パパ、ママ。私は悪戯専門店の娘として恥のないような生徒になると宣言するよ!」サクラが嬉しそうに叫んだ。
 「やめておくれよ!」ミラが呆れたように言った。
 「ふうん」フレッドはサクラを試すような目で見る。「例えば?どんなことをしたいと思う?」
 「フレッド!」ミラが怒鳴る。
 それでもフレッドとサクラはまったく気にしないような態度で会話を続ける。
 「まずは、ホグワーツの便座をパパに送りたいと思ってる」サクラは胸を張って言った。「ジョージおじさんが昔言っていたんだろう?」
 「話したこと、よく覚えているな」フレッドがクスクスと笑う。「ジョージは大喜びだ」
 「喜ぶのは、ジョージと君だけだ!」ミラが叫んだ。「便座と一緒に退学通知も来るだろうよ!そうしたら、どうするんだ君は!」
 ミラの焦燥しきった顔に、フレッドはお構いなくまたキスをした。
 「なぁ、ミラ。俺が今まで悪戯が原因で退学になったことなんかあったか?」
 ミラはフレッドのキスに少しばかり顔を綻ばせたが、すぐに我に返って真顔になる。
 「ないよ!だって私たちは中退してるんだから!」
 「誇らしいよ」サクラがニコニコと歯を見せて笑った。「あの伝説的な悪戯をした双子のひとりが、私のお父さんなんだろう?」
 「ああ、間違いないぞ。サクラ」フレッドは弾むような声で言った。「その生きる伝説がお前のお父さんさ」
 「もう!マクゴナガル校長になんといえばいいんだ?」
 かつてお世話になった厳格なるマクゴナガル教授の呆れた顔はできるだけ見たくないとミラは思った。それから、九月から巻き起こるであろう娘の悪戯を思い浮かべて、よじるような胃の痛みを感じるのであった。

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