とある魔女の死

 昼の蒸し暑さがウソのように、夕暮れの空に吸い込まれていく。まだ少し暖かい風が漂う「隠れ穴」の居間ではミラとジョージが夕食後の余暇を過ごしていた。
 ミラは白湯の入った湯飲みをゆっくり傾けながら薄く透けている月をぼんやりと眺めている。その表情にはどことなく憂いが浮かんでいた。
 「ミラ、見てみろよ」ジョージが突然言う。
 その言葉に素直に従ったミラはジョージに視線をやったと思うと、口に含んでいた白湯を思わず吹き出した。
 「ジョージィ!」ミラが叫ぶ。「そういうことはするなって何度も──何度も──言っているじゃないか!」
 想像通りの反応だといったふうに歯を見せて笑うジョージの左耳──正確には左耳はないので穴だけなのだが──そこには歯ブラシが突き刺さっていた。
 「馬鹿者!」ミラが駆け足でジョージの目の前について歯ブラシを引っこ抜く。「きみはまだ療養中なんだぞ。フレッドに君を頼まれているんだ。お願いだからじっとしておいておくれよ」
 「俺の兄貴なら、今のを見て拍手をするだろうよ」ジョージは胸を反らせてニヤリとする。
 「ああ、そうだろうね。君の兄貴・・ならそうだろうとも」ミラは頭を抱える。「そうだとしても。今、ウィーズリー・ウィザード・ウィーズを仕切っているのは私の婚約者・・・ただひとりだけだってことを忘れないでおくれ」
 ジョージが「七人のポッターの戦い」で左耳を失って以来、休養という形で『WWW』の経営から離れ「隠れ穴」で過ごすことになってからは二ヶ月ほどが経っていた。
 唯一のスタッフであるミラがジョージに付き添うことを頼まれ、以来『WWW』の運営はフレッドひとりで受け持っているのだ。
 「こんなご時勢だからこそ笑いが必要だから、『WWW』を開けるときみたちは言ったんだ」ミラが言う。
 「笑いが必要なのはここだって同じはずだろ」ジョージは優しく笑った。「ミラ、きみはここ最近ずっと不安そうだ」
 予想もしていなかったジョージの言葉にミラは思わず唸ってしまう。「七人のポッターの戦い」での犠牲は大きかった──ジョージの片耳、そしてマッドアイの死。一寸先は闇とはまさにこのことで、ミラも憂鬱な日々が続いていた。もちろん言葉にこそ出さなかったが、付き合いが長い家族同然のジョージには全て筒抜けだったようだ。むしろ、ジョージは自分にこそ責任があると思っているのかもしれない。
 「すまない。不安にさせてしまったね」ミラが言う。
 「いンや、違うね。不安になってたのはミラだ」ジョージが言う。
 「いやだから、不安になった私を見て不安になったのはジョージなわけで、だから不安なのは二人で、全体が不安で……?」ミラがもそもそと続けてついに首をかしげた。
 「早口言葉かよ。マジでアホだぜ」
 ジョージが苦笑いをしたときだった。居間にある暖炉から、何やらミシミシと音が鳴りはじめる。ジョージとミラが暖炉に視線を向けて、ゆっくりと近づいた。二人が二、三歩近づいたとろこですぐに暖炉は緑色の炎をあげて燃えさかり、中からアーサーおじさんとフレッドが青白い顔で飛び出してきた。
 ミラはその二人の表情を見て、なんだか嫌な予感がした。彼らの顔色にあの「七人のポッターの戦い」を思い出してしまい、息を吞む。
 「パパ、それにフレッドまで。どうしたんだよ」ジョージが先ほどの様子とは打ってかわって真剣な表情になった。
 しかしアーサーおじさん、そしてフレッドさえもジョージを無視して、二人は冷や汗をかいたまま固まったミラの目の前までものすごい速さで詰め寄ってきた。
 「ミラ、落ち着いて聞いてくれ」低い声で言ったアーサーがミラをまっすぐと見据えて続ける。「きみのママが──グレースが、死んだ」
 言葉の意味がしばらくはわからなかった。脳が理解をさせまいとしたのかもしれない。英語はじゅうぶんに理解できるはずなのに、なぜか知らない国の言語を聞かされているような感覚であった。
 「ごめん、おじさん。誰のことを話しているの?誰が死んだって?」ミラは半笑いでアーサーおじさんに言った。
 「魔法省で例のあの人のクーデターが起こったんだ」アーサーおじさんは瞼をぎゅっと瞑った。「大臣のルーファス・スクリムジョールが拷問にかけられて死んだ。そして、君のお母さんも……」
 「ああ!ミラ!」フレッドがもう我慢できないといったふうにミラを抱きしめた。「グレースおばさんが、グレースおばさんが」
 婚約者であるフレッドの詰まる言葉と彼に似合わない悲しそうな表情を見て、ミラはモヤのかかっていた頭がだんだんと晴れていくのを感じる。ようやく今自分の身に起きていることを把握しはじめていた。
 「そんな、ウソだろう。そんなわけないじゃないか……」ミラはすぐにフレッド引きはがして言う。依然として半笑いを浮かべたままだ。
 ジョージもグレースの死を聞いて信じられないといったような顔で唖然としている。両手を重力に任せるままにぶらんとさせて立ち尽くしていた。
 『へぇ、そうやってみんなして冗談を言ってるんだ?こんな冗談、趣味悪いって!わからないの?』
 ミラは思わず日本語で捲し立てたが、フレッドもジョージも、そしてアーサーおじさんも言葉の意味がわからずにぽかんとしていた。ミラは自分が日本語で話していることにも気づいていなかった。
 『嘘つき!』ミラが叫ぶ。『今はそんな笑えない冗談を言ってる場合じゃないじゃんか!』
 「ミラ、頼むよ……」アーサーおじさんが今にも泣きそうな顔をして言った。
 「ミラ」ジョージが声をかける。
 「ミラ」フレッドも続けて優しく言った。
 三人の悲しげな目線にそれまで取り乱していたミラの動きはピタリと止まる。そして自分だけの時が止まってしまったかのようにミラは微動だにしなくなった。
 自分だけがこの場に取り残されたかのようにフレッドやジョージ、アーサーおじさんがどんどん離れていくような錯覚になる。自分の魂が抜けてしまって、霊体が天井から見下ろしているかのように自分自身が俯瞰に見える。
 この感覚には覚えがあった──マッドアイが死んだと知らされた瞬間のときと同じだ。そうか、母は死んでしまったのだ。
 「あ、ああ…。ああ!」ミラが実感すると共に瞳が溺れてしまうくらいの涙が次へ次へとあふれ出てくる。
 「ミラ!ああ、なんてことになっちまったんだ」フレッドが崩れ落ちかけていたミラをすかさずに受け止める。「ミラ、ごめん。こんなことを知らせるために帰ってきたくなかった」
 ジョージとアーサーはかける言葉を失ってしまったように、ずっと俯いていた。
 しばらくするとミラの泣きわめく声にモリーおばさんとジニーが階段から降りてきた。そして何事かといった顔でアーサーを見るとアーサーはグレースの死を重たい表情で伝えた。それを聞いた二人は瞬く間に顔面蒼白になる。
 それから、モリーおばさんがフレッドを押しのけてミラをどんな時よりも強く抱きしめた。ミラはより一層激しく声をあげて泣いて、モリーおばさんの胸に顔をうずめた。ジニーはそれを見て、声を殺しながら静かに涙を流している。
 しばらくしてミラがモリーおばさんから離れると、今度はアーサーおじさんがミラを抱きしめた。もう自分の意図にも関わらずに垂れ流し続ける涙をそのままにミラはアーサーを抱きしめ返した。
 「ミラ、ごめん」ジョージがアーサーおじさんの背中越しに悲しそうな顔で言う。「こんなことになってるとも知らずに、俺──」
 「やめておくれよ」ミラはジョージの返事を待たずに彼を抱きしめた。「こんな気持ちにさせてすまない、ジョージ」
 抱き合う二人にフレッドが用心深い猫のように少しずつ近づいていくる。ミラはジョージからゆっくりと離れて、フレッドと向き合うような姿勢をとった。ミラがフレッドの顔を見上げると、彼も静かに涙を流している──フレッドと婚約したことを誰よりも喜んでくれたのは母親だったことを思い出して、ミラは言葉にならない泣き声をあげながらフレッドにしがみついた。
 それから誰も何も言わず、ミラのしゃくりをあげる声とウィーズリー家のすすり泣く声が居間に続いた。
 沈黙が重苦しく「隠れ穴」を満たしていたが、しばらくしてミラのしゃくりが止まった。
 「アーサーおじさん、母の最期を教えて」
 フレッドから離れてそう言ったミラの目には復讐心が光る。まるで、怒りの矛先を向ける相手を探しているかのようだった。
 「ミラ、それは──」
 「話して!」ミラが間髪入れずに叫んだ。
 ミラの血走った目にはまだ涙が溜まっていて、今にもまた溢れてきそうだった。それを見たアーサーは観念したように大きなため息をひとつついてから、重く語りはじめた。
 「魔法省のクーデターは静かに行われた。『服従の呪文』を使ってね」アーサーの顔に混交した感情が揺れているのが見える。「きみのママは優秀な魔女だった。抵抗したんだ。それで──」
 アーサーは話を途中でふっつりとやめた。それから、話の続きを促そうとするミラの肩を抱いて居間のソファにゆっくりと彼女を座らせる。自分も腰を下ろして息を整えるかのように深呼吸をした。他の者たちもそれに続いてぞろぞろとイスやソファに腰を下ろし始める。動きだけのざわめきで満たされた奇妙な間が少しだけ続いたあと、アーサーはまた口を開く。
 「死喰い人デスイーターの気配にいち早く気づいたグレースは『服従の呪文』をすんでのところでかわした。そこから、少なくとも三人の死喰い人デスイーターと交戦になったと聞いている」
 「母が死喰い人デスイーター三人を相手に?にわかに信じられないよ」ミラは複雑そうな顔した。
 「きみのママならあり得る話なんだよ。ミラ」アーサーおじさんが言う。「前回の『不死鳥の騎士団』のメンバーの中でもずば抜けて防衛術に長けていたと、シリウスも言っていた」
 「本当に優秀な魔女だったのよ。そばにいてくれるだけで私たちの心を強くさせていてくれるような」ウィーズリーおばさんもアーサーおじさんに同調して頷いた。
 「モリーの言う通りだ。今でも信じられない──グレースが死喰い人デスイーターにやられてしまうだなんて」アーサーおじさんが目に溜めていた涙を指ですくう。「しかし、『服従の呪文』にかけられた職員たちが大勢いては、グレースも思うように動けなかったのだろう」
 アーサーの嘆くような声に、居間がまたしばしの沈黙に包まれた。
 ──自分の母親がこんなにも評判の良い魔女だとは露程も知らなかった。ミラは虚ろな気持ちながらに思った。
 母親は過去のことをひた隠しにしてミラには頑なにしゃべりたがらなかった。二年前にシリウス・ブラックからグレースが「不死鳥の騎士団」のメンバーだったと聞かされて、文字通りひっくり返りそうになったのはまだ記憶に新しい。
 ミラが三年生の頃に病死してしまった父親も、結婚する前の母親のことはほんの少ししか知らないと話していた。そのほんの少しの話でさえも娘には言うなと強く口止めをされていたそうだ。
 グレースと少しの認識のズレで、関係が悪化してしまった時期もあった。しかし基本的には娘への愛情を惜しまない人であったし、婚約者となったフレッドにも、学生時代からかなり気さくだった。精神面が弱いところや融通のきかないところに悩まされる時期もあったが、そんなことよりもミラはじゅうぶんに母親を愛していたのだ。
 「話してくれてありがとう。おじさん」沈黙を破ったミラは自身の赤くなった鼻をこすって、溜息をついた。「フレッドも駆けつけてくれてありがとう。もう大丈夫だから、きみはお店に戻っておくれ」
 「そのことなんだけど」フレッドがジョージを見た。「俺、今日はもう店に戻るつもりはないよ」
 「そうだと思った」ジョージは吐き出すように笑う。
 「何を言ってるんだい」ミラが慌ててソファから立ち上がって双子を交互に見た。「まだ閉店作業が残っているだろう?」
 「まあね。でも、鍵はかけてあるから問題ないさ」フレッドが笑った。「まあ、一日くらい『笑い』を休んだってバチは当たらないってことだよ」
 「鍵をかけてあるからとか、そういう問題なのかい?ダメだよ、フレッド」ミラは気の抜けた顔になり、空気の抜けた風船のようにフニャフニャとソファに落ちた。
 ふたりのやり取りをみたアーサーがクスリと笑う。
 「おじさんも、笑ってないでなんとか言ってやっておくれよ」ミラが言う。
 「いいや」ウィーズリーおじさんは頭を振った。「わたしは息子の気持ちを汲んでやってほしいよ、ミラ」
 アーサーおじさんはゆっくりとソファから立ち上がり、居間の窓から天を仰いだ。薄暗かった夏の空はいつの間にか真っ暗になっていて、月が高く光っていた。    

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