エーテルレン夫人

 ロンドンの電話ボックスの地下には、マグルが想像もできないほどの光景が広がっている。豪華なホール、金色に輝いて動き続ける掲示板、人が入ったり出てきたりの暖炉。そのうえ噴水まで備えてあるなんて、誰が思うだろうか。
 「五階。国際魔法協力部でございます。国際魔法貿易基準機構、国際魔法法務局、国際魔法使い連盟イギリス支部は、こちらでお降りください」
 雑然とした廊下に落ち着きのはらった女性の声が鳴り響く。
 その声と共に金の格子を構えたエレベーターがスルスルと横に開き、ひとりの魔女が地下五階に降りてきた。彼女の頭上にはのんびりと飛び回るいくつかの紙飛行機も一緒だ──薄紫色で、両翼の先端には「魔法省」とスタンプが押してある。
 その魔女は紙飛行機などには目もくれず、何事もないように廊下を歩き出した。廊下の窓からは陽の光が差し込んでいる。カンカンに照らされている光にその魔女──グレース・トウドウは魔法ビル管理部の機嫌を思い浮かべて少しだけニヤリと笑った。
 まもなく、ひとつの部屋の扉の前にたどり着く。扉には「国際魔法貿易基準機構」と記されてあった。グレースは扉を開いて紙飛行機──省内連絡メモと一緒に部屋に入っていく。
 「グレース、おかえり」
 扉をあけてすぐそばに座っていた丸眼鏡の魔法使いが陽気に声をかけた。彼はグレースの同僚だ。
 「今日はすごいわね。この紙飛行機」グレースはやっと「省内連絡メモ」を目で追ったかと思うとうんざりとした顔で言った。
 「しょうがないさ」丸眼鏡の魔法使いが肩をすぼめる。「今日はエーテルレンの奥様が来てるらしいからな」
 丸眼鏡の魔法使いの言葉に、グレースは部屋に入ろうとする少しだけ足をとめたが、少し間を置いて何事もなかったかのようにまた歩き出した。
 「ああ、そう。あのエーテルレンの奥様ね」グレースはすごく興味ないといったふうに答えて、同僚を通り過ぎて奥の席に腰をおろした。
 それからグレースと丸眼鏡の魔法使いはどちらからでもなく会話を終えて、それぞれの机に向かって黙々と自身の仕事をこなしはじめた。もとより国際魔法協力部、国際魔法貿易基準機構は退屈な仕事であった。
 「こんにちは」
 突然部屋の扉が開いて、高い声が聞こえてきた。その声を聞いてグレースは同僚へチラリと鋭い視線を送った。丸眼鏡の魔法使いは一度強い目線で立ち向かったが、彼女の眼力を前にすぐに諦めてげんなりとして席から立ち上がった。グレースは勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
 国際魔法協力部という部署柄、来客があるのはよくあることだが、部署の人間はできるだけ知らないふりをしたがった。理由は単純だ──そのほとんどが外国人でコミュニケーションをとるのにも一苦労であったからだ。
 丸眼鏡の魔法使いがしぶしぶと扉へと歩いていく。グレースはその後ろ姿を目で追って、来客がどんなやつかを確認しようとした。しかし、いつもは怠慢な同僚が思ってもいない行動に出た。
 「こ、これはこれは──」同僚が聞いたこともない余所行きの声で言う。「ミセス・エーテルレン!いったい、いかがなさいましたでしょうか?」
 その猫なで声にグレースは完全に動きを止める。ゆっくりと机から立ち上がり、扉から死角になる場所を狙いながら、蛇のように音を立てずに歩き始めた。
 「ミス・クーパー――いえ、ミセス・トウドウははいらっしゃる?」エーテルレン夫人はニコニコ笑いながら話しかけた。
 グレースは背後にいる来客に意識を集中させた。眉間がピクリと動くのが自分でもわかった。
 「グレースですか?」同僚は驚きでずり落ちた丸眼鏡をかけなおして言った。「うちのグレースに、なにか問題でも……?」
 「問題なんてないわ。ほら彼女、ホグワーツで──」
 グレースは彼女の言いかけた言葉に慌てて体を翻した。彼女が最後まで言い切る前に、なんとしても遮らなくてはならなかった。
 「ミセス・エーテルレン」
 グレースは足早にミセス・エーテルレンの面前に辿り着くと、乱れた髪を撫でつけてから軽い会釈をした。
 「こんにちは!グレース!お久しぶりね!」
 エーテルレン夫人はニッコリとしてグレースの至近距離まで詰め寄ってくる。グレースは無理やり貼り付けたような笑顔を浮かべて、少しだけ後ずさりをした。
 丸眼鏡の魔法使いは狼狽したような妙な瞬きをして、エーテルレン夫人とグレースを代わる代わるに見る。重心を失ってしまったかのようによろよろとしていて、今にでも倒れてしまいそうな様子だった。
 「し、失礼ですがミセス・エーテルレン……うちのグレースとは、親しい間柄で……?」
 「ええ、彼女はホグワーツの先輩なの」エーテルレン夫人は微笑みを深めて言う。「私たち、とっても仲良しだったのよ。ねえ、グレース?」
 「本当かい?グレース」同僚が驚きで目を見張らせながら言った。
 「ええ、そう、そうね」
 同僚をチラリと見て矢継ぎ早に答えたグレースはすぐにエーテルレン夫人に視線を戻した。それから彼女の体を遠慮のない手つきで引き寄せると、耳元まで顔近づけて低い声で囁いた。
 「少し黙れ」
 グレースの刻まれた眉間のしわが一層深くなる。エーテルレン夫人は怖気つく様子もなくクスリと笑った。
 「席を外してもよろしいかしら。ミセス・エーテルレンとお話することがあるの」グレースは無理にひねりだしたような笑いをして言った。
 「も、もちろんさ。グレース」丸眼鏡の魔法使いが変に興奮したように言う。「十分でも、二十分でも……いや一時間でも!」

 グレースとエーテルレン夫人の二人は「国際魔法貿易基準機構」の部屋を出る。そして少しばかりの距離を歩いた先にある、表札のかかっていない真っ黒な扉を開けた。中は書類や本でいっぱいで足の踏み場もないほど乱雑な部屋だ。長い間使われいないせいで、すこし埃っぽい。
 「すごいわグレース。貴女、あんなふうに喋れたのね?」
 エーテルレン夫人ははしゃぐようにして言った。まるで、名家の奥方という鎧を捨てて今のこの瞬間だけは学生時代に戻ったというような態度だった。
 「一体こんなところまで、なにをしにきた?」グレースは肩眉をあげてニヤリと笑った。「偉大なるエーテルレン様に頭が上がらないさまを見に来たというなら、大臣たちの方へ行け。レイラ」
 「あら!」レイラはひどく興奮した様子で言う。「ずいぶんと皮肉がうまくなったのね、グレース」
 「あれから何年経ったと思っている」グレースは言う。「今の私なら、だいたいの冗談は通じるさ」
 グレースの言葉にレイラはまた嬉しそうに鐘をついたように笑った。旧友と久しぶり再会した喜びを噛みしめているようだった。
 「お前のほうこそ、ずいぶんと上品な物言いを覚えたようじゃないか」グレースもエーテルレン夫人に応えるかのように、かつての口調で切り返す。
 「エーテルレン夫人ですもの」レイラは艶のある長い髪を揺らした。「トウドウ家もさぞかし、由緒あるお家なんでしょうね」
 「それは嫌味だな。レイラ」グレースは鼻で笑って言う。「シュウヘイと結婚するのがそんなに気に食わなかったのか?」
 「もったいないと思ったのよ。由緒正しきクーパー家を捨てるなんて。その時はね」レイラは含みのある顔をして言った。
 「由緒正しきクーパー家か」グレースは肩をすくめた。「確かに私の先祖は偉大な魔女だったらしいが、今や没落貴族だ」
 グレース・オフィーリア・クーパー──彼女の結婚前の名前だ。ミドルネームに先祖の偉大な魔女の名前をつけられたが、グレースはこれが煩わしくてたまらなかった。
 「きみは、まだ執着しているのか。純血とやらに」グレースは言う。
 「もう、いじわるね。あの頃の私じゃないのよ」レイラは答えた。
 「そうか。それは少し、意外だな」
 「いいのよ。そんなことよりもエーテルレンには権力があるもの。わかるでしょ?」
 「そうだろうな。身に染みているよ、こっちに来てからずっとね」
 グレースは力なく笑った。レイラの言うことはその通りであった──エーテルレンという名前を聞けば誰もが首を垂れる。当たり前だ、魔法省の出資のほとんどを担っているのがこの一族なのだから。
 「それで?結局、お前は何をしにきたんだ?」グレースは低い声の落ち着いた調子で尋ねた。
 「特に用事なんてないの」レイラはなんでもないことかのように部屋中に放り出された書類を見ながら言う。「かの有名なハッフルパフの女王様が、貴女がどのように人に使われてるかが気になっただけなのよ」
 「おかしなことを言い出すのは相変わらずのようだが――本当に目的はそれだけか?」グレースは溜息をついてからレイラの顔を見つめて言った。
 「さすがは、仲良しさんね」
 レイラはクスクスと笑う。それから両手で自分を抱え込むようにして腕を組み、言葉を続けた。
 「娘からふくろう便が届いたの。『最近、ちょっと変わった日本人の魔女と知り合った』ってね」
 「ほう」グレースもレイラを模倣するかのように腕を組んで言う。「その魔女が一体誰なのかは検討もつかないが――日本人はみんなヘンテコだからな――きみの娘が学校生活を楽しんでいるようでなによりだよ。レイラ」
 「ちょっと。貴女こそ相変わらずね──鈍感なのは」レイラが呆れて言った。
 「どういうことだ?」グレースが首を傾げた。
 「それって、あなたの娘のことよ。グレース」
 「私の娘?ミラ?ミラのことを言っているのか?」
 「そうよ」レイラはいそいそと楽しそうに笑った。「あなたの娘、フェイをゴーストだと思っていたらしいの」
 思わずグレースは噴き出した。自分の娘が突拍子もないことをホグワーツでしでかしているのは想像に容易かったが、その想像をこえるものだった。
 「うちの娘が?──君の娘をゴーストだって?」
 「それだけじゃないわ」レイラはまだニヤリとしたままだ。「あの子がとっても仲良くしている魚たちを紹介したらしいけど──」
 「それをどうしたんだ?うちの娘は」グレースもニヤリ顔を返した。まるで、自分の娘がどんなことをしでかしたのだろうと、ワクワクしている様子だった。
 「その魚たちを前に『スシにしたい』って言ったんですって」レイラは堪えきれないといったふうに歯を見せて笑って言った。「間違いなく貴女の娘よ。グレース」
 グレースはまたもや噴き出した。しかし、今度は致命的だった。その場にうずくまって、グレースは笑いを我慢して腹筋がひくつくのを感じた。娘の無神経すぎる言葉に、日本の職人である夫を感じたからであった。
 グレースはひときしり笑い終えると、よろよろと立ち上がった。目には涙を浮かべている。彼女は気持ちを落ち着けるように深呼吸をして、目の前の旧友に対しての愛おしさも込めて言った。
 「ミラが帰ってきたら、褒めてやらないといけないな」  

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