蛇のファーストキス
晩餐時のホグワーツの大広間は毎日生徒で大賑わいだ。様々な声や響きが高い天井に遠く近くで交差する。生徒たちは今日一日の授業の感想や、あるいは教授の悪口、隣の寮の噂話などで大いに盛り上がっていて喜怒哀楽の表情が四列の長テーブルを囲んでいた。
しかしそのような喧騒もある一定の時刻を過ぎると、その名の通り一夜の嵐のように過ぎ去っていくのだ。
夕食を済ませた生徒たちが続々と出口に吸い込まれていき、大広間は徐々にいつものような静けさを取り戻していく──ミラはこの時間が一番好きだった。名残惜しむかのように会話を続けながら談話室へと帰る生徒を横目に、食後の白湯を飲みながらゆっくりとするのが自分のお決まりだった。
その時だ。自前の湯呑を啜りながら一息ついているミラの肩を叩くものがいた。
こういう時に水を指すのはいつも決まっている。ミラは喧しい赤毛の双子の顔を思い浮かべながら振り返ると、そこに立っていたのは予想外の人物だった。
「すみません、あの……」
声を掛けてきたのは見覚えのない小柄の女の子だ。恐らく新入生だろう。夕食終わりとは思えないほどの教科書を両手に抱き、申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「こんばんは。えっと、どうしたのかな?」ミラはなるべく不自然に見えないように努めて笑顔で答える。
「じ、実は寮に帰る合言葉を忘れてしまって……その、よければ教えてくれませんか?」
「合言葉だって?」ミラは目を丸くした。
うちの寮に合言葉なんてないだろう──そう続けようとしたが、とあるところに目を留めてからミラはまるで石化の呪文をかけられたかのように動きを止める。
ミラの目線の先は、今にも泣きそうな顔をしている少女のローブに向いていた。その胸元には真新しい蛇の寮章が縫い付けられていてピカピカに輝いている。彼女はスリザリン生で、どうやらミラを同じ寮の上級生だと思い込んでいるようだった。
依然としてミラは固まったままであったが、驚きはしなかった。実はスリザリン生に間違われるのはこれが初めてではないからだ。
またか──ミラは心の中で深い溜息をついた。その原因が自身の顔立ちにあることを自覚していたからだ。
ミラは目鼻立ちのしっかりしている顔で整っている方ではあったが、なにぶん人相が良くなかったのだ。血管の通っていないような白い肌に切れ長で険のある瞳、それに常に憂鬱そうな表情も相まって周りにはひどく冷たい印象を与えていた。
極め付きは一年生の頃だ。その人相ゆえにスリザリン寮監のセブルス・スネイプ教授までもが勘違いしたという噂が広く流れてしまった。そのことから誰が言い始めたか、ミラの面貌には「スリザリン顔」という名がついてしまったのだ。
「あの……」少女は瞬きもせずに固まっていたミラにおそるおそる声をかけた。
少女の声によって、ようやくミラは過去の記憶の深い沼底から引き上げられる。はっとしたミラは咳払いを一度してから立ち尽くしている少女の顔をようやく見上げた。頬をピンク色に染めた可愛らしい女の子だ。
「ああ、ごめんね。実は私、スリザリンじゃなくてハッフルパフなんだ。ほら」ミラは困り笑いを浮かべながら自身のローブにある寮章を指さす。
少女は目線をゆっくりとミラの指先へと移してからピンク色の頬を更に紅潮させた。彼女は自分のとんでもない間違いにようやく気づいたようだ。
「ご、ごめんなさい!」
「いや、いいんだ。よくあることだから──」ミラは少女を慰めようとしたが、それを待たずに少女はもう一度謝罪の言葉を叫んですぐに走り去っていってしまった。
取り残されたミラは少しの間呆然としてしまったが、いつものことだと何事も無かったように装いテーブルに向き直る。しかし最後に見た少女の怯えた顔を思い出して、やはり項垂れるのであった。
「ミラがスリザリン生に声をかけられてるところを見ると、新学期って感じがするな」
これ以上下げられないほど垂れていたミラの頭上から声がした。今度こそ、知っている声だった。
「悪口かい?フレッド?」ミラは顔をあげて、いつの間にか傍らに立っていた恋人を一瞥してから茶飲みを煽った。
「まさか」フレッドはニコニコして嬉しそうにミラの隣へ腰かける。「ミラは、ミステリアスで綺麗な顔してると思うよ」
フレッドはまるで繊細な人形を扱うかのように、指でミラの細い横髪をといた。ミラの胸がどきりと音を立てる。体はピタリと動かせなくなり、顔がどんどん真っ赤になっていくのが自分でもわかった。フレッドの手がミラの髪を離れてから、ミラはようやく驚きの声をあげた。
「やれやれ。俺たちが付き合ってからもう半年以上もたつんだぜ?」フレッドがやきもきした気持ちを隠さずに頭をかきむしった。「君がこんなにもウブだったとはな」
「これは違う、そのウブとかじゃなくて……そう、ビックリしただけさ」
「そんなに顔を真っ赤にしておいてよく言うねぇ」
フレッドの言うことが正しかった。彼の言う通り二人は付き合って既に十ヶ月は経っているはずなのに、ミラは恋人としての距離感に慣れることがまだできなかった。
フレッドの切り替えが早すぎたせいだ。ミラ去年のクリスマスを思い返す。二人が付き合うことになった次の日からフレッドはすぐにでも恋人の振る舞いをしたがった。
ミラの授業が終わる時間が合うとわかればすぐに迎えに来たし、いつでも荷物を代わりに持ってくれたり、すぐそこの距離までも手を繋ぎたがるのだ。そしてミラの仕草一つ一つに「可愛い」となんの恥ずかしげもなく褒めちぎる。
途中ほかの生徒に冷やかされることも少なくなかったが耳まで真っ赤にして狼狽えるミラに反してフレッドは気にするどころか周囲にニヤリと笑ってみせていた。
もちろん嫌な気持ちなどはない。フレッドからの愛情表現にはむしろ嬉しい気持ちでいっぱいだったが、幼い頃から友人だった男の子がとある瞬間から恋人になったのだ。恥ずかしくなってしまうのは普通のことだとミラは思う。
「きみが器用すぎるのさ」納得いかないといったふうな膨れっ面でミラは頬杖をついて火照った顔を冷まそうと反対の手で扇いだ。
「そんなことないさ。ミラだってダンスパーティーの日は大胆だったじゃないか」
「あれは、いつもと違う格好で気分が高揚してたから出来たというか……」ミラはフレッドの手を引いてダンスに誘ったりバカみたいに踊った自分の過去を思い出し、恥ずかしさで思わず顔を逸らした。
「日本人って控えめなんだな」
「恥ずかしがり屋なんだ。言ってるだろう?」ミラは背けていた顔を少しだけ戻してチラリと彼を見た。
「それでも、『郷に入れば郷に従え』ってね」隣に座るミラへにじり寄ったフレッドはミラの真似をするように頬杖をついてニヤッと笑う。そして、辺りをぐるりと見回しながら顎でミラにも促した。それに素直に従ったミラは目に入った光景に驚かされることになる。
まず、大広間にまばらに散らばっていた生徒たちが皆二人組であったこと、またそのほとんどがカップルだったことだ。
「い、いつの間に?」ミラは目を皿のようにして驚く。
「いつ間にっていうか、いつもだぜ。七年間、一体ここで何を見てきたんだい?」フレッドは呆れるを通り越して感心していた。「アダリンの言ってた通りだ」
「アダリンが?君、アダリンと何を話したの?」
「『あの子は一度自分の世界に入り込むと周りが見えなくなる』ってさ」
ミラは何か反論をしたかったが、確かにこの時間は考え事に没頭しているばかりで周りをよく見ていなかったことに気づかされた。
アダリンやセドリックは完璧な課題を提出するためにすぐ談話室に戻っていたので、そのような話題に触れられることもなかった。それにフレッドやジョージに声を掛けられた時は城の抜け出しのお誘いが主だったのでそのまま大広間を後にする事が多かったのだ。
「知らずにひとりぼっちでボーッとしてただなんて」ミラは情けない声を出した。「教えてくれたフレッドには感謝しなくちゃいけないな」
「そう。なら、君は何ももう恐れることはないってことでいいな?」
フレッドの問いにはミラは何も答えなかったが彼が言わんとしていることはわかった。前にも何度かそういう雰囲気になったことがある。いくら鈍感なミラでもこういう時に恋人たちが何をするべきかには気づいていた。しかし彼女の心の準備ができているわけもなく、気付かぬ振りをして切り抜けていたのだ。──二人はまだ一度もキスをしたことがなかった。
「わ、わかってる。君は私のことを鈍感だと思っているんだろうけど──そしてそれはその通りなんだけど、そこまで度は過ぎていない」
ミラはフレッドの肩を押して自身から遠ざけた。それからフレッドとは目も合わせず、焦りを隠すかのように大きく身振り手振りをして続けた。
「でも、こんなとこで先生にでも見られたら?私はもうミス・ガーリックのでっかいトロフィーを磨くのはごめんだし、その、やっぱり人前では……」
「馬鹿」フレッドは早口で捲したてるミラの額を軽くこづく。「するかよ、こんなところで。俺だってなんでもかんでも見せびらかしたいわけじゃないんだぜ」
フッと笑うフレッドを見て、先程まで目を白黒とさせていたミラはようやくホッとした顔になる。ミラを見たフレッドはなんともいえない顔をしていたが、すぐに表情を戻して「もう行こうか」とミラの手を引いて立ち上がらせた。
大広間を出たあと、フレッドはいつものように談話室に続く地下階段の前までミラを送ってくれた。
「じゃあ、また明日」
ミラは気まずそうにもじもじしながら手を振った。
「ああ。おやすみ、ミラ」
フレッドも手を振り返した。声色にはいつもの陽気さが残っていたが、どこか力弱い。なにより、とても寂しそうな表情をしていた。
ミラはフレッドの態度を見てなんだか妙な気分になった。急に体がそわそわと落ち着きを失って、よくわからない衝動が押し寄せてきているのが自分でもわかった。
フレッドが大階段へ向かおうとミラに背を向けて歩き出している。少し元気のないように見える後ろ姿にまた妙な気分と衝動がこみあげてくる。気づけばミラはフレッドの腕を掴んでいた。ミラはフレッドの反応を待たず、そのままねじきるような勢いで腕を引っ張り無理やりフレッドを振り向かせる。
驚いた顔をしたフレッドがどうしたのかと問おうと口を開きかけている。ミラはフレッドの顔をまっすぐに見つめた。ようやくわかった。自分がなぜフレッドを引きとめたのか、そして今なにがしたいかを。そのことをフレッドに伝える前より先に体が動いた。ミラはフレッドの腕に今度は重力をかけて屈ませ──そのままキスをした。触れるだけの軽いキスだったが、恋人に衝撃を与えるのにはじゅうぶんだった。
「ごめん!」
我に返ったミラは跳ねるようにフレッドから距離をとる。──やってしまった。ミラは自分の顔がみるみる紅潮していくのを感じた。あんなに人前は嫌だと言ったくせに。学校の往来で、それも自分からキスをした……。恥ずかしさでフレッドの顔が見れない。ミラは俯いたまま言い訳をした。
「その、寂しそうな君を見たら、すっごく愛おしくなって。急にしたいって思っちゃったんだ。その、キスを」
「君って本当に……なんなのさ……。ウブなのか大胆なのか……」
フレッドの切羽詰まったような声が聞こえる。
「そ、その通りだ。あ、危うく人前に、なるところだった」
ミラは締りのない口元を動かして笑っているのか泣いているのかわからないような顔になった。こんな状況でも生徒の気配をひとつも感じなかったのは幸いだった。
ミラは少しだけ顔を上げて上目遣いでフレッドの顔を盗み見た。フレッドは口元を手で覆って、耳の付け根まで真っ赤になっていた。こんなフレッドを見るのは初めてだ。ミラは自分の顔が更に灼けつくのを感じる。
それからしばらく互いに何を話せばいいのかわからなくなっていた。そのまま無言が続いていたが、先に限界を迎えたのはミラだった。ミラは「それじゃあ、おやすみ!」と叫んでから、ほとんど飛び降りる形で階段を駆け下りていく。
地下へと伸びる階段の底からバタンバタンと衝撃音が何度も響いていたが、いまだに呆然とするフレッドの耳には届くことはなかった。
二人が初めてキスをした夜から一晩が経ち、朝がやってきた。生徒たちが朝食をとっている大広間にいつもより少しばかり遅れてジョージはやってきて、空いている席に滑るようにして入り込んだ。
「おはよう。ミスター・ウィーズリー」
ジョージの背後から笛のように澄んだ綺麗な声がする。つられて振り返ってみると、含みのある顔をしたアダリン・ロイドがハッフルパフ寮の長テーブルに背をつけて座っていた。
「おはよう。で、何か言いたそうだな?ミス・ロイド」
「ええ、山ほどあるわ」アダリンはスカートからすらりと伸びた細い足を組み直してからため息をつく。「昨日の夜、大変だったのよ」
それからアダリンは息を深く吸い込み、機関銃のように昨夜の事件について語り出した。
「……夜、談話室の外から突然ドッタンバッタンって物凄い音が聞こえてきたの。私、何事かと思って扉をあけたわ。下級生たちがトロールかもしれないなんて怯えだしていたから。それであけてみてびっくり!ミラがボーッとした顔で立っていたの。全身酢まみれで!──ほら、貴方も聞いた事くらいはあるでしょう?うちの寮、入る方法を間違えるとお酢が吹き出てくるのよ。──そう、あの子、七年生にもなって失敗したの」
ここまでほとんど一息で話したアダリンは一度喋るのをやめて呼吸を整える。ジョージは既に笑いを堪えながら、無言でアダリンへ続きを促す仕草をした。
「まず、ひとりの下級生が酢の臭いで失神したわ。そしてそれをきっかけに談話室はパニック状態になって……。すぐに二つ下のハンナ・アボットがスプラウト先生に報告しに飛び出ていった。その間に私は放心状態のミラにすぐシャワーを浴びさせて、着替えさせて。それから駆けつけてきた先生にローブや制服についているお酢を綺麗に落としてもらってようやく落ち着いたの。……ねぇ、本当に何度も言うけど大変だったんだから。なにがあったか、全く話そうともしないし」
事の顛末を話し終えたアダリンは、話の途中からクスクス笑いの止まらなくなったジョージに顰めっ面をした。
「まったく最高だな」ジョージはアダリンとは正反対に満面の笑みで答えた。「それで?噂の酢の国のお姫様が今日は見当たらないみたいだけど?」
「お姫様は温室でスプラウト先生のお手伝い。当たり前よ。みんなに迷惑かけたんだもの」
「そりゃ残念。是非ともお会いしたかったよ。この熱が冷めないうちに」
「本当、しばらくの間からかってやってちょうだい。私、この七年で初めて失敗した人を見たわ」アダリンは昨晩の光景を思い出しながら頭を抱えた。「というか貴方の方こそ、お兄さんが見当たらないようだけど?」
ジョージはアダリンの問いに「ああ」と思い出したような調子で言った。
「フレッドは寝坊。まあ珍しいことじゃないんだけどさ、なんかアイツも昨日の夜から変なんだよな」腑に落ちないような顔をしたジョージは自分の顎を触った。「なんかずっと上の空でボーッとしてるんだよ。朝も準備してると思ったら、急に固まるんだ。石化の呪文受けたみたいにさ」
「あら、珍しいわね。遅刻してもいつもヘラヘラしてる子なのに」
「だろ?いつもは俺も兄貴に合わせてのんびり準備するんだけど、さすがに気味悪くて置いてきちまったんだ」ジョージは背後のテーブルからオートミールをなみなみと器によそってからアダリンへと体を向き直した。「あの調子じゃ、朝食は食べ損ねるだろうな」
「なるほどね。……でも、そのお陰で私たちは答えに辿り着いたようよ」
「なんだって?」口いっぱいにオートミールを含ませたジョージは目を見張った。
「鈍いわね。どう考えても今このホグワーツであの二人だけがおかしいじゃない」
アダリンの言葉にジョージはなるほど、と膝を打った。
「ははーん。つまりだ」ジョージはニヤリと口角を思わずあげる。「あの二人に何かしらの第一歩があったわけだな?」
「だいたいの想像はつくわね。今夜は『セキハン』かしら」そうアダリンが言うとジョージは「セキハン」という言葉に首を傾げる。アダリンは「こっちの話よ」と受け流して続けた。
「それにしても貴方のお兄様はずいぶん上手に見えていたけれど、決定的なことにはウブなのねぇ」
「おいおい。ウブさで張り合うつもりか?そっちのお嬢様はビックリ箱かっていうくらいにいちいち飛び跳ねてるのに?」
それから二人は示しを合わせるように顔を見合わせて、転がるように笑い出す。その笑い声にはフレッドとミラが上手くやっていることの嬉しさもあったが、半分以上はなんだか体がかゆくなるくらいの可笑しさを占めていたのだった。