高架橋の上の約束
九月の弱い秋の陽光がスコットランドに差し込んでいた。空気はひんやりとして湿り気を帯び、湖には薄い霧がかかっている。森の木々も、ところどころで葉の色を変えはじめていた。
ホグワーツ城の中庭からは、昼休みを過ごす生徒の話し声や笑い声が聞こえてくる。しかし、そんな穏やかな景色を叩き割るような怒声が響き渡った。突然のことだった。
「待ちなさい! ミス・ウィーズリー!」
生徒たちがみんな、ギョッとした顔で振り返った。エメラルド色のローブを着た背の高い魔女が、遠くのほうで廊下を闊歩しているのが見えた。
ミネルバ・マクゴナガル校長だ。あんなに怒って、一体何事だろう……思うやいなや、今度は生徒たちの脇を何者かがヒュッとかすめて飛んでいった。あまりの速さに、彼らが辛うじて見えたのは、打ち上げられた魚のように跳ねる赤毛と、グリフィンドールのネクタイだけだった。
今年ホグワーツ魔法魔術学校二年目を迎えたサクラ・ウィーズリーは、新学期早々、マクゴナガル校長の鞭を掻い潜ろうと城中を走り回っていた。
「見逃してください、マクゴナガル校長!」サクラは顔だけを校長に向けた。「ちょっと――ほんのちょっと『火遊び』しただけじゃないですか!」
「いい加減にしなさい!」マクゴナガル校長はいまや爆発寸前の形相だ。「ご両親にふくろう便を送りますよ!」
「おお、そりゃ大変!」サクラはニヤリとして叫び返した。「きっとパパはカンカンですぞ!」
追いかけっこはしばらく続いた。しかし、後ろにいたマクゴナガル校長が急に立ち止まり、フーッと深いため息をつくのが見えた――校長の姿はだんだん小さくなり、やがて見えなくなったので、サクラは急いで目の前の中央ホールに続く扉を押し開けた。
中央ホールは人影もまばらだった。まるで、さっきまでの騒ぎが嘘だったかのようだ。
サクラはようやく一息ついて、ゆっくりと薄暗いホールの階段を歩き出した。高い天井から差し込む淡い光が、磨き込まれた床に反射し、複雑な模様を描いていた。
階段を降りると、セイレーンの噴水のベンチに一人ポツンと座る生徒を見つけた。よく知った顔だったので、サクラはすぐに駆け寄った。
「やあ、アリア!」
ハッフルパフのアリア・ディゴリーはサクラの声に顔をあげた。その拍子に、彼女の焦げ茶色の長い髪がはらりと肩から落ちた。
「ああ、こんにちは、サクラ」アリアはニッコリと笑った。「そんなに息を切らして、どうしたの?」
「いつものことさ」サクラは張りついた前髪を指で掻きながらアリアの隣に座った。「マクゴナガル校長との、逃走劇」
サクラはマクゴナガル校長の真似をして眼鏡を直す仕草をした。それを見たアリアはプッと噴き出すように笑った。それから、「相変わらずだね」とつぶやくように言って、大理石の床に視線を移した。
――なんだかおかしいな。サクラは思った。自分が知っているアリア・ディゴリーなら、きっと「今度は何をしたの?」だの、「まだまだ甘いよ」だの、すぐに食いついてくるはずだったからだ。
「もしかして、なにかあった?」サクラは心配になって、アリアの顔を覗き込んだ。
「ちょっとだけね」アリアは弱々しい声で言った。
「あのさ」サクラは言った。「この前のクィディッチ・ワールドカップの結果なら、そんなに落ち込むことないよ。ほら、私たちってまだ若いし……これから先に何度だって見れるんだからさ。日本なんか見たかい?ひどいもんだったぞ」
サクラは、アリアが落ち込んでいる理由が夏休み中に開催されていたクィディッチ・ワールドカップの結果のせいだと予想した。アリアの贔屓しているイングランドがいいところで負けてしまったのはつい数ヶ月前のことだ。
気持ちはよくわかるつもりだった。サクラが応援していた日本は初戦敗退だったのだ。このことでサクラはしばらくがっくり落ち込んでしまったし、なんなら母親はそれ以上だった。あの日の取り乱した母親の姿は、もう忘れたい。(サクラの母、ミラ・ウィーズリーは故郷の日本がとことん大好きだった)
「ううん、違うの――いや、それも忘れてるわけじゃないんだけど」アリアは困ったように笑った。
「つまり、もっと深刻な話?」
「ウン……」
サクラと目も合わせずに唸るように答えたアリアを見て、これはいよいよ大事件だと思った。
誰よりも優しいけど、生徒をからかうのが好きで、周りの評価なんかちっとも気にしない自由奔放な女の子のアリア・ディゴリーは、サクラと相性抜群の友人だった。同い年のアリアとサクラはホグワーツに入学してからすぐに意気投合したのだ。そんな――いつも爆発ボンボンのごとく元気な――アリアが、落ち込んでいるのを見過ごすわけにはいかない。
サクラは、すぐに思いついたことをアリアに言った。
「ねえ、午後の授業、ふたりでサボっちゃおう」
「え?」
アリアは素っ頓狂な声をあげた。髪の毛とおんなじ色をした瞳がかすかに揺れているのが見えた。
「こんな時に、教授がたの話をまともに聞くなんてばからしいじゃないか」サクラはニヤリとした。
「どうやるの?」アリアは少し前のめりになった。「アタシたち、一年生の時からずっと先生に目をつけられてる」
「うちの稼業を忘れたとは言わせないよ、アリア・ディゴリー?」
サクラはローブのポケットから水色のヌガーを取り出して、アリアに見せつけた。
「それってもしかして……WWWのズル休みスナック⁉」アリアはまじまじとヌガーを見つめた。
「いいかい、きみはこの『発熱ヌガー』を食べるんだ」サクラはニヤリを顔中に広げた。「そして教授にこう言う――『やだ、熱が出ちゃったみたいだわ』」
「そんなわざとらしい言い方はしないよ」アリアはクックッと笑った。「それで? サクラはどうするの?」
「私はこれさ」
サクラは、今度はローブの裾から濃いチョコレート色をした細長いヌガーを取り出した。
「鼻血ヌルヌルヌガー」サクラは言った。「『ああ、走り回っていたら壁にぶつかって、鼻の骨が折れちゃったみたいだわ!』ってね!名案だろう?」
「サクラは役者には向いてなさそうだね」アリアは笑った。「でも、すっごい楽しそうかも!」
アリアは目をランランとさせて、発熱ヌガーをひとかじりした。その様子が、ちょっぴり元気を取り戻したように見えたのでサクラはホッとした。
アリアといったん別れて、待ち合わせ場所に最初に到着したのはサクラだった。待ち合わせは、いつも二人が遊んでいるクィディッチ競技場だ。
競技場は、見渡すかぎり巨大な観客席がそびえ立っていた。赤、緑、黄色、青――さまざまな色で彩られた塔が連なり、その間を結ぶ飾り布が風に揺れていた。休日はいつもクィディッチ選手たちを応援する声で賑わっているこの場所も、オフ・シーズンとなればまるで別の場所のように静まり返っていた。風に揺れる飾り布の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえた。
アリアが現れたのは、それから数分後のことだった。
「大丈夫だった?」
サクラが、とぼとぼ歩いて競技場に入ってきたアリアに聞いた。
「まったく問題なし」アリアがニッコリした。「アタシが熱を出すなんて、先生は想像もしてなかったみたい。嘘みたいに優しかったよ」
『よっしゃあ!』サクラは思わず日本語で叫んだ。
「ええと、どういう意味?」アリアは聞いた。
「ああ、ごめん。ママがこういうとき、よくそう言うんだ。気にしないで」サクラは言った。
アリアはちょっと眉を上げた。「また日本語だろうな」といっているようだった。母親の影響で、サクラが思わず日本語をしゃべってしまうのは珍しいことではなかったから、きっとそうに違いない。
サクラは気恥ずかしそうに自分の赤毛のおさげを触ったが、アリアは首を振って、すぐ神妙な顔をした。
「それで、サクラ。アタシの悩み事なんだけど――」
「ああ、それはあと!」サクラは反射的に叫んだ。
「はい?」アリアはぽかんとした。
「まずは、やることがあるんだ」
サクラは競技場の隅っこまで走った。そして、アリアが来る前に準備しておいた箒を二本抱えて、アリアの元にフゥフゥ息を切らしながら戻ってきた。それからサクラは持っているうちの一本の箒をアリアに押しつけると、アリアは戸惑いながらも箒を受け取った。
「飛ぼうよ!」サクラは箒にまたがった。「いつもみたいに――ばかみたいに――何も考えず、とりあえず飛ぼう!」
アリアは困惑という言葉がまさにぴったりな顔をしていたが、サクラの急かすような視線を受けて慌てて箒にまたがった。
そして、二人は同時に地面を蹴った。
誰もいないホグワーツ城を思いっきり箒で飛んでみるのは、なかなか気分がよかった。数多の悪戯ばかりのサクラも、こればかりは初めてのことだった。
「気分爽快だ!」先頭を飛ぶサクラが言った。「そうだろう? アリア!」
「まったくその通り!」アリアが叫んだ。「ただ、自分の箒ならもっと早かった!」
「贅沢言うなよ!」サクラはベーッと舌を出しておちゃらけてみせた。「寮まで取りに行く時間なんかなかったんだ!だから、すぐそこの物置にある箒を適当に持ってきたのさ!」
「冗談だよ!」アリアがサクラに追いつき、ニヤリと笑った。「これって最高! 今までで一番!」
それからサクラとアリアは、ホグワーツを一周してみたり、まるで試合の途中かのように競技場の客席で旋回してみたり、ひとしきりに箒を楽しんだ。
風が顔にぶつかり、ローブの裾がばたばたとはためいた。髪はぐしゃぐしゃになり、目も開けづらい。それでも、サクラとアリアはずっと笑っていた。足元には、小さくなった湖が広がり、サクラとアリアがさんざん遊んだ禁じられた森ですらちっぽけに見えていた。まるで、自分たちが風そのものになったような気分だった。
どれぐらい飛んでいただろうか。ついに限界はやってきて、サクラとアリアはよろよろになりながらホグワーツの高架橋の目の前に着地した。
「はあ、楽しかった」サクラはため息まじりに言った。
「本当にね」アリアが言った。
「それじゃあ、あらためて聞こうじゃないか」サクラが言った。「一体なにがあったのさ?」
サクラはくたびれた箒をアリアの分と二本、片手で抱えながら、もう片方の手でアリアの腕を掴んで高架橋を渡っていった。
「ねえ、サクラ」アリアは高架橋の真ん中で立ち止まった。「サクラは今年、クィディッチの選抜試験を受けるんだよね?」
「そのつもりだよ」サクラは言った。「もちろん、きみもそうだろう?」
「それが、できないことになっちゃったの」アリアは急にしょんぼりした。
「ハア⁉」
サクラは箒をほっぽり投げてアリアに詰め寄った。あまりの驚きに、地面に転がった箒たちに足がつっかえてしまった。
「どういうことだい⁉ てっきりきみとは……ハッフルパフとグリフィンドールで良いライバルになるんだろうなって、勝手にそう思ってた!」
サクラの言葉を聞いたアリアの目にはいまにも涙がこぼれそうだった。それから、アリアは少し申し訳なさそうな顔をして、肩あたりにあるサクラの頭を撫でた。
「うん。私もね、そう思ってたよ」
アリアは高架橋の窓から、名残惜しそうにスコットランドの景色を眺めた。サクラには、なにがどうしたらそうなるのかが、いまだにわからなかった。
「きみ、夏休み中に自分の箒を買ってもらったってあんなにふくろう便で喜んでたじゃないか」サクラが言った。
「そのあとにね、ママに言われたの。選抜なんか受けちゃダメって」アリアは俯いた。「クィディッチは危ない競技だって」
「グレイシーおばさんが?」
その話はサクラにとって意外なことだった。ディゴリー夫妻はサクラの両親の同窓であり、彼らはホグワーツを卒業してからもずっと仲が良かった。夏休みの間にみんなでクィディッチ・ワールドカップを何度か見に行ったし、そのときだってグレイシーおばさんは、箒が好きと宣言したサクラに優しくしてくれていたはずだ。
「で、でも――おかしくないかい?」サクラは言った。「きみのパパだって、ホグワーツのクィディッチ選手だっただろう? うちのパパがいつも文句言ってた! すごいシーカーだったって」
「だからこそだよ」アリアはため息をついた。「パパとママは、学生時代にそのことでずっと喧嘩してる」
アリアは外を見たまま、サクラを見ようとしなかった。サクラはしかたなく、アリアと同じように隣の窓枠に肘を置いた。
外の景色は美しかった。澄みきってはいないが暗すぎもしない空には、白い雲がゆっくりと流れていた。遠くには、さっき二人が待ち合わせをしていたクィディッチ競技場が豆粒みたいになっていた。きっとサクラとアリアはあの競技場で毎年試合をして、終わったあとは憎まれ口を叩きあいながらあーだこーだと笑いながら言い合うもんだと思っていた。いや、時には本気で喧嘩したっていいとさえ――サクラは、アリアの気持ちを考えたらいたたまれなくなって、何も言えなくなってしまった。
「別に悪い話ばかりじゃないんだよ」アリアが沈黙をやぶった。「パパがね、クィディッチに関わるのはなにも選手だけじゃないって言ってくれたの」
「どういうことだい?」
「そう、それならいっそ実況者になればいいって。そう言ってくれたんだ」
「えっとそれって……」サクラは驚いて口をあんぐりと開けた。
アリアはサクラの様子を見てから、肩をすぼめ、窓の外の湖を見つめた。しかしサクラは、アリアとはまるっきり正反対の気持ちだった。ふつふつと愉快な気持ちがたぎってきて、思ったことをそのままアリアに言った。
「それって、すごい! つまり、特等席じゃないか!」
アリアはきょとんとしていた。アリアはきっと、これ以上サクラに慰めの言葉を出させないためにこのことを言ったんだろうということもわかっていた。でも、サクラは全然違っていた。
「すごいよ! ああ、さすがはアリアのパパだ! そうか、実況者か!」サクラはアリアを抱きしめて飛び跳ねた。「すごい! 実況者だなんて!」
「な、なんでそう思うの?」アリアはサクラにさられるがままになった。
「当たり前だろう⁉」サクラは言った。「キーパー、チェイサー、ビーター、シーカー――実況者になればアリアはクィディッチのすべてを見ることができるんだよ! それに、きみならそれができるだろう! そうだよ! だってきみは、ワールドカップのときもずっと試合すべてが見えていたんだもの! 私なんか、ブラッジャーを見るだけで精一杯だった! でもきみはそれだけではなく、クアッフルがどこにいるかだとか、シーカーがスニッチを見つけだとか、全部見ていたじゃないか!」
「ええっと、そうだったかなあ」
アリアは知らんぷりしているようだったが、そんなことはない。絶対に心当たりがあるはずだとサクラはニヤリとした。
「今年はすごいことになるぞ、名実況者の誕生を目の当たりにするかも……」
サクラはうずうずして、橋が揺れてしまうんじゃないかというくらいにドスンドスンと足踏みをした。
「アハハ!」アリアが急に笑い声をあげた。「サクラって、本当におもしろい!」
今度はサクラがきょとんとする番だった。アリアを見つめたサクラの榛色の瞳が、いつもよりまんまるになったのが自分でもわかった。
「正直、すっごく迷ってたことだったけど……」アリアは続けた。「サクラにそんなこと言われちゃ気合入っちゃうね」
そのときだった。高架橋の上を渡る風が、サクラとアリアのあいだをすり抜けていった。強い風にあおられて、サクラの前髪がばさりと顔にかかった。視界がふさがれ、思わず『うわっ』とサクラは日本語で小さく声をあげた。
次にサクラがあわてて髪をかきあげたその向こうで、アリアがまるで――胸に絡みついていた何かが、すっと消えてしまったかのような顔をしていた。
アリアは床に転がる箒を拾い上げて、意を決したように深呼吸してから言った。
「サクラ! これで選抜に落ちたら許さないからね!」
アリアはニヤリと笑ってサクラに言った。いつも通り、人をからかうような――何度も見た――サクラの大好きなアリアの笑顔だった。
「きみとの箒レースと比べたら、選抜試験なんてたいしたことないよ」サクラはアリアの胸のあたりを指でひと押しした。「一番いいところで私を見ておいておくれよ、アリア」