不思議の国
「ん、授業……もう終わったの?」肌に感じるそよ風に目を覚まし、ナツキはぐぐっと背伸びをしてから眠い目を擦った。
した意識をはっきりとさせていく。
その直後、彼女はみるみる顔を青くし、自身の目と口を限界まで開いた。
そして、その口の大きさとは裏腹に、小さく掠れた声が漏れた。
「ここ……どこ……?」
──彼女は「とりあえず、状況確認」とブツブツ独り言を言いながら辺りを見回した。
ここは、ホグワーツ……ではない。勘の良い彼女がそう気づくのに時間はかからなかった。
青い芝生、漂う紅茶の香り、遠くに見える薔薇園。
そして、水色のワンピースにエプロンを着た自分自身のへんてこな姿。
彼女の頭の中で思い出されたのはひとつ。
幼い頃に読んでもらった童話。
「新手の魔法? ウィーズリー先輩達の新しいタスク? 一体何のこれは……!」
彼女は、誰か居ませんかー! と何度か声を出した。
しかし、誰も来る気配はない。どうしてか、そもそも自分はどうしてこんな格好なのか、疑問は尽きず、
ナツキはここに来て何度目かの溜息をついた。
「そんな溜息をついていると、幸せが逃げてしまうわ。アリス?」
突然ナツキの目の前にぬっと現れた逆さの顔。
「ひゃあっ!」
ナツキは思わず尻もちをついた。
頭の上から覗き込んでいたのは、奇妙な笑みを浮かべるチシャ猫だった。
「にゃはは、そんなに驚かなくてもいいじゃない。ここは“夢”の国だよ」
「ゆ、夢……? 寝てるの、私?」
「さぁ、どうだろうね。君が夢を見ているのか、夢が君を見ているのか」
チシャ猫は意味ありげに尾を揺らしながら、ナツキの周囲をくるくると回った。
「ところで、アリス。君は“本当の自分”を探しているのかい?」
「……アリスじゃないです、ナツキです」
「名前なんてこの国では意味を持たないよ。大事なのは“物語の役割”さ」
そう言うと、チシャ猫は煙のようにすっと姿を消した。
残されたナツキは呆然と立ち尽くす。
その時、彼女の後ろから低い声が響いた。
「……遅いぞ、ナツキ」
振り返ると、そこには黒いスーツを纏い、銀髪を垂らした青年──ミラが立っていた。
「ミラ先輩!? ここ、どこなんですか!?」
「知らん。気づいたら俺もいた」
相変わらずのそっけなさに、ナツキは思わず安堵のため息を漏らした。
「よかった……知ってる顔がいて」
「ふん、知ってる顔? お前、俺を何だと思ってる」
「怖いけど、頼れる人?」
「……悪くない」
ミラは鼻で笑い、手を軽く払うと周囲の薔薇がふわりと宙に舞った。
「なっ、何ですか今の!?」
「知らん。どうやらこの世界では、俺の魔法が勝手に花を操るらしい」
「勝手にって……そんな適当な!」
ナツキが呆れたように叫ぶと、ミラは肩をすくめて答えた。
「ここは理屈の通じない場所だ。時計を見ろ」
「時計?」
彼女が腕時計を見下ろすと、秒針が逆回転していた。
「うそ……!?」
「時間も感情も、ここでは逆さまだ」
ミラがそう言い終えるか終えないかのうちに、ぱたぱたと軽い足音が響いた。
「おやおや、間に合わない、間に合わない!」
声の主は、白い毛並みのウサギ。
手に大きな懐中時計をぶら下げ、慌ただしく走り去っていく。
「待って! どこ行くんですか!?」
ナツキが声を張り上げるも、ウサギは振り返らずに森の奥へと消えていった。
ミラはため息をつきながら後を追う。
「行くぞ。あいつがこの夢の出口を知っているかもしれん」
「えぇー、また変な人に会いそう……」
「人、じゃないかもしれんがな」
森を抜けた先には、長いテーブルと無数のティーカップ。
白ウサギと帽子屋、そして三月ウサギが賑やかにお茶を楽しんでいた。
「やあやあ、ようこそお茶会へ!」
帽子屋がナツキに笑顔を向ける。
その笑顔はどこかフレッドに似ていて、ナツキは一瞬だけ胸が熱くなった。
「さぁさぁ、座って座って! 紅茶が冷めちゃう!」
「い、いえ私そんなに飲め──」
「遠慮はいらないさ、アリス!」
「だからナツキですってば!」
帽子屋が笑いながら、ナツキの前に山のようなカップを並べる。
三月ウサギはスプーンを指揮棒のように振り回し、白ウサギは時計を気にして落ち着かない。
ミラはその光景を無言で見つめながら、カップをひとつ手に取った。
「この紅茶……味がしない」
「夢だからな」
「夢、ですか……」
ナツキはゆっくりと椅子に座り、カップの中を覗き込んだ。
そこには、自分の顔が水面に映っていた。
──そして気づいた。
この“夢”の国は、誰かの心の中にある。
チシャ猫が言っていた「物語の役割」とは、自分が誰かの夢を演じているということ。
「ねぇ、ミラ先輩……」
「何だ」
「もしこれが誰かの夢なら、その人を起こすにはどうしたらいいんでしょう」
「……簡単だ。その人の心を呼び戻せばいい」
ミラは静かに立ち上がり、指先でテーブルを叩いた。
音が波紋のように広がり、周囲の景色が白く溶けていく。
「──ナツキ」
聞き覚えのある声。
目の前の白がだんだん色づき、やがて見慣れた天井が現れた。
「……夢、だったんだ」
彼女は小さく呟き、机の上に散らばるノートと羽根ペンに目を落とした。
防衛術の授業が終わったあと、うっかり居眠りしてしまっていたらしい。
「起きたか。まったく、授業中に寝るとはいい度胸だな」
いつものように呆れ顔のミラ先輩が、隣の席に腰を下ろしていた。
「……あの、“不思議の国”って、現実にはないですよね」
「さぁな。お前の頭の中にはあったんじゃないか?」
そう言ってミラは立ち上がり、教室の出口へ向かう。
その背中に、ナツキは思わず声をかけた。
「もしまた夢を見たら、先輩も一緒に来てくれますか?」
ミラは足を止め、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「……その夢が悪夢でなければ、な」
「ふふっ、約束ですよ」
窓の外では風が吹き、遠くの湖面がきらきらと揺れていた。
ナツキはペンを取り、ノートの隅にそっと書いた。
──“また、夢の国で会えますように。”