クラッドウェル・アンド・ブリュースター
夜の十時十分前、同級生のシャーロット・エメラルダとおしゃべりするアダリンの横顔を盗み見ながら、ミラは素早く、しかも音をたてずにハッフルパフの談話室を抜け出し、階段を上っていった。
ミラはガランとした玄関ホールを抜き足差し足で横切り、隅にあった誰もいない小部屋にそぉーっと滑り込んだ――幸いなことに、階段の途中、呆れ返ったように目を細めてこちらを見るセドリックとすれ違ったほかは、誰も見かけなかった。
もうすぐ十時になる。ミラは戸に耳を押しつけ、玄関ホールの様子が何事もないかどうか確かめた。
いまごろ、アダリンは主のいないミラのベッドに気づいたに違いない。
アダリンは、今夜ミラとウィーズリーの双子が城を抜け出すことはもちろんわかりきっているはずだが、それでもミラがいざ談話室から出ていこうとすれば、彼女はいつもの小言をお預けにはできなかっただろう。忍びの地図についてや、トンクス先輩との訓練についてで考えることがいっぱいのミラにとって、それだけは避けたいと思っていた。
それから三十分、ミラはじっと待っていた。目の前の木の扉をノックする音がしたのは、その時だった。
ゆっくりと開く戸の隙間から、燃えるような赤毛が二つヌッと現れた。
「お待たせ、ミラお嬢様」双子が声を合わせて言った。
「迎えにきてくれてありがとう」ミラはゴーグルを触りながら言った。「でも、『お嬢様』は余計だ」
「なに、お安い御用さ。お嬢様」ジョージがニヤニヤした。
ミラは思わず榛色の瞳をギョロつかせて、ジョージに向かって悪態をついて下品な手まねをした。
「おいおい」
フレッドはミラの肩に腕を回して、がっちりと自分のそばに締めつけた。
「まだ十一時にもなってないんだぜ。大騒ぎするの だけはやめてくれよな」
「……それじゃあ、なぜこんな時間に?」
待ち合わせが夜の十時ごろだと聞かされたのは夕食のときだった。フレッドとジョージがハッフルパフのテーブルまでそろそろとやってきて、ミラだけにこっそり耳打ちしたのだ。
いつもなら待ち合わせは決まって十一時半のはずだった。なぜなら、生徒たちは十時を過ぎたらベッドから出ていけない決まりになっているし、先生がたも――もちろん、フィルチを除いてだが――十二時には校内をうろつくことが少なかったからだ。それなのに、どうしてこんなに早いうちからなのだろうと、ミラはこのときまでずっと疑問に思っていた。この時間ならフィルチやミセス・ノリスだけじゃなく、他の先生だってまだ何人か出歩いているはずだ。
「相変わらず鈍いな」ジョージはポケットから古びた羊皮紙を取り出した。「忘れたかい?僕たちにはこれがある。そうだろ?」
「忍びの地図」だ。ミラはジョージから地図を受け取って、さっそく周辺に誰もいないかどうかチェックした――玄関ホールには誰もいないようだ。フィルチとミセス・ノリスを示す点は、まだフィルチの部屋にある。なにより怖いスネイプ教授は研究室にこもりきりだ。
「時間が早ければ早いほど、それだけいろんなところへ行けると思ってさ」フレッドの目がキラキラ輝いているのが見える。
「それには賛成だよ、フレッド」ミラは「忍びの地図」を双子へ返して言った。
「よしきた」ジョージがニヤリとした。「さっさと行こうぜ。ここから西塔は急いでも十分はかかる」
玄関を出て、中央ホールを通り過ぎ、西塔までたどり着くのにはたしかに十分以上はかかった。途中、「忍びの地図」のお世話になりながら先生たちをかいくぐるのはなかなかのスリルだった。石像の裏に隠れたり、引き戸の陰に隠れたり……いろいろだ。
ミラたちは、たくさんの甲冑がギーギー、ガシャガシャと音を立てて笑っている廊下を注意深く通り抜け、階段また階段を上った。
――いったいあとどのくらいかかるんだ……まだ上るのか?ミラがそう思い始めたとき、突然先頭を切っていたフレッドが止まった。
「ついたぞ」フレッドは忍びの地図を見つめたまま、二人を手で制した。「ここが西塔の五階だ」
ミラは目の前の双子の背中を掻き分けると、オリーブグリーンの大きなタペストリーが壁一杯にかかっている廊下が目に入った。タペストリーには様々な魔法使いと魔法動物が描かれているようで、ミラたちは歩きながらしげしげとそれを観察してまわった。(フレッドとジョージはどんな魔法動物なのかだいたいわかっていたようだが、あいにくと、ミラはイギリスの魔法動物に疎かった)
やがて、ミラたちは月明かりに照らされた広間に行き着いた。どうやらここで行き止まりのようだ。右手には空き教室へのドアが、そして左手には――大きな鏡がある。
「地図にあった鏡って、これのことかい?」ミラは自分よりも背の高い見事な鏡の前に立った。
「間違いない」ジョージがきっぱりと言った。
「地図を見るかぎり、この裏に抜け道があるみたいだけど……」フレッドは夢中で鏡の周りを見回した。
ミラはフレッドの手の中にあった「忍びの地図」を横から覗き込んで、先生や他の生徒が近くをうろついてないかを確認した。黒い点が二つ、大階段を動き回っている。どうやらフィルチがピーブスを執拗に追いかけているようだ。これならしばらくは大丈夫だろう。ハァハァ息を切らしながら階段を上ったり下がったりするフィルチを思い浮かべて、ミラはちょっぴり愉快な気持ちになった。
その時、急にガタンッ!となにかが枠から外れるような音が広間に大きく響き渡った。
「な、なんだ⁉」
ミラは慌てて鏡の方へ視線を戻した。ちょうどフレッドが、鏡の金の枠に両手をかけて――まるで扉をこじ開けるかのように――なんとか動かそうとしているところだった。
ミラとジョージが、フレッドに急いで加勢した。鏡は思ったより重く、三人がかりでも少しずつ動かすのがやっとなほどだった。
鏡はぎりぎりときしむ音を立てながら、ゆっくりと開いていく。十分ほど格闘したころ、ぽっかりと空いた穴が見えてきた。しかし、真っ暗でなにがあるのかまったくわからない。
「ルーモス! 光よ!」ミラは、灯の点った杖をその中に腕ごと突っ込んだ。「なにか見える?」
「壁だ!石の壁が見えるぞ……それに……ああ、違う、ミラ、もう少し下のほう……」穴に向かって首だけを突き出したフレッドがミラの腕を掴んでグイッと下げた。
「階段だ!階段がある!」
それを聞いたジョージが残った力を振りしぼって一気に鏡を開けた。その衝撃で、鏡と穴の間から小石と土がポロポロとミラの腕に降り注いだ。
フレッドがジョージに続いて、鏡の枠にありったけの力を込めた。そうして隙間は、ようやく人が一人通れるくらいに広がった。
「やったぞ!」双子は同時にそう言ったあと、風船が一気にしぼんでいくようにその場に座り込んだ。
鏡の裏は、洞窟になっていた。フレッドの言った通り、土の混じった石壁に、下へ続く階段が見える。
「これ、本当に降りるのかい?」ミラが言った。
フレッドは息切れで話をするどころではないといった様子で床に膝をついたままだったが、顔を引きつらせながらニヤリと笑って親指を上げた。
一行の先頭はミラになった。ミラは杖灯りで安全を確認しながら、階段をゆっくりと下りていく。その間、三人は無言で足下だけを見ながら歩いた。一歩一歩そっと踏み出す足音だけが洞窟中に反響し、ミラはそれが何となく不気味だった。
そうしてだんだんと洞窟の奥深くへ、三十分も歩いただろうか。ミラの荒くなった息遣いと、額を伝う汗だけが、長い時間の経ったことを知らせていた。
「明かりが見えるぞ」ジョージが突然声を出した。
ジョージの言葉に、ミラが杖先を横にずらして階段下へと目を凝らしてみた。たしかに、遠くの方でチラチラと揺らめく明かりが見えた。
一番後ろにいたフレッドがお目当てのものをやっと見つけたというふうにため息をついて、ミラとジョージを急かしはじめた。
ミラが足早に階段を下りていくと明るいオレンジ色の明かりがだんだん大きく丸くなっていく――それが松明の明かりだということに気付いたのは、ミラが最後の石段を下りきったときのことだった。
「また洞窟かよ!」フレッドが細い石造りの通路を恨めしそうに見て言った。「やっと下りたと思ったのに!」
「ノックス! 消えよ!」ミラは灯りを消して、杖をレッグポーチにしまいこんだ。「でも、見てごらんよ。ほら、あそこ――扉が見えないかい?」
洞窟のむこう側には分厚い木の扉があった。それを見たフレッドが苛立ちを隠さず大股でずんずんとミラを横切り、扉へ近寄って行った。
「開けるぞ」フレッドは古めかしい銀製の取っ手に手をかけながらミラとジョージに声をかけた。二人が黙ってうなずくと、フレッドは扉を開けた。
赤色の絨毯が伸びた、薄暗い長い廊下だった。その両側にはたくさんの扉が並んでいて、まるでマグルの建てたビジネスホテルのようだ。
三人はその場の異様な光景に引き付けられ、視線を上に向けた。天井から下がって揺れているランプは埃で真っ白だ。
そのあと、最初に動き出したのはやはりフレッドだった。
「何だい、こりゃ?」
フレッドは絨毯の上を歩き回り、扉のひとつひとつを興味深げに見渡した。
「さらに開かないときた」ジョージが二番目の扉を引っ張った。「いよいよ何だか怪しいぜ」
ジョージがそう言い終えた時、一陣の風がみんなの髪を逆立てた。こんな地下に風なんか吹くことがあるのだろうか?ミラがそう思うまもなく、今度は銀色の霞のようなものが三人をさっと通り抜けた。
『うぎゃあ!』
ミラが甲高く日本語で叫んで後退りした。驚くべきことに、それまで頑丈に閉ざされていた扉たちが、銀色の霞のあとに続くようにバタバタと開きだしたのだ。
「マジかよ、おい!」少し先にいたフレッドが身を翻して、ミラとジョージに向かって走ってきた。
『変なやつが……変なやつがいたよ!』
ミラがとっさにフレッドにすがりつくと、フレッドはかばうように自分の背中にミラを隠した。
「あっちへ行ったぞ!」
ジョージが廊下のつきあたりを指さした――つきあたりには一つだけ、閉じられたままの扉があった。
『ねぇ、どうするの?』ミラが緊張でゴーグルをゴシゴシこすりながら言った。『絶対危ないって!』
「ミラ!」ジョージが言った。「わかるように話してくれ!僕たち、まだ日本語はほとんどわからないんだぜ!」
ジョージの言葉に、ミラはハッと我にかえって咳払いをして、今度ははっきりとした英語で言った。
「ごめん。つまり、どう考えても危険だって、そう言ってたんだ」
「むしろ、ここまできて来て進まないっていう選択肢はあるかい?」フレッドが言った。
「ありえないな」ジョージが続いた。「こんなところで引き返しちまったら、みんなの笑いものだ」
「私は、笑いものになった方がずっとましだと思うんだが……」
ミラは開いた扉たちをチラリと横目で見た。扉の先には何もない。文字どおり真っ黒だ。しかし双子はなにも気にしていないようだった。それよりも、あの「変なやつ」が通り抜けた扉のほうが気になってしょうがないという態度で、ずっとそわそわとお互いに顔を見合わせていた。
「なあ、行くよな?ミラ」フレッドが焦れったそうに言った。
「いいよ。でも――」ミラは深いため息をついたあとに、フレッドとジョージをまっすぐに見て言った。「これで死んだら、お前らを呪い殺してやる」
次の部屋は真っ暗で何も見えなかった。ミラは杖を取り出して、呪文を唱えようとした。が、三人が一歩中に入ると、突然光が部屋中にあふれ、驚くべき光景が目の前に広がった。それを見て、ミラは今度こそ失神しそうになった。
部屋の天井には、落ち窪んだ顔をした死体が、ミラの目が届くかぎりにぶら下がっていた。
「し、し、死体だ!」
慄いて足元をふらつかせたミラを、フレッドとジョージが両側からしっかりと抱えた。
「ミラ!」ジョージが叫んだ。「落ち着いて、よーく見てみろって!ほら……」
ジョージの言葉で、恐怖と混乱でぼやけた視界が鮮明になっていった。靄のような蜘蛛の巣、それに無残にも吊るされた死体の輪郭がはっきりと見えてきて、ミラは思わず顔を背けそうになったが、双子が無理やりに前を向かせた。そうしてようやく気づいた――これは、死体なんかじゃない。
「わかったか?」フレッドがホーッと息を吐いて、ミラの腕を掴んでいた手を緩めた。「ただのマネキンだよ」
……フレッドの言う通りだ。なんてことはない、あちこち欠けたマネキンが、天井で踊らされているように無様に下げられているだけだ。(それもそれで十分気味が悪かったが、死体に比べれば可愛いものだった)
「突然動きだしたりするんじゃないか?」ミラはゆらゆらと揺れているマネキンを睨みながら言った。
「動き出したところで、だ」ジョージが余裕しゃくしゃくで答えた。「マネキンが俺らに何ができる?」
ミラとフレッドとジョージの三人は、次の部屋を目指してマネキンの下を歩いた。途中、ミラが懸念していたようなことはマネキンには起こらなかった。ほれ見たことか、と得意げなジョージに、ミラが気まずそうな顔を返してやっているうちに、次の扉にあっという間に辿り着いた。
ジョージがそーっと扉を細く開けると、フレッドが隙間を覗いた。そしてミラとジョージを交互見ながら、こくりと頷いた。
中はハッフルパフの地下室をこれでもかというくらいに汚くしたような、樽に囲まれた倉庫だった。石畳の床いっぱいに小石や割れた瓶が散らばっているし、何が入っているかわからない大小さまざまな鞄が乱雑に転がっている。しかし、扉だらけの廊下やマネキンの部屋に比べたら、もっとも安全な部屋だとミラはそう直感した。
「やっと出口が見えてきたって感じだな」フレッドが言った。
「そうだな」とジョージ。「ちょっと汚いけど、ようやく普通らしくなってきた」
「君たち、『変なやつ』を忘れたわけじゃないよね?」ミラは歯をむいて唸った。
「まさか」フレッドはちょっと肩をすくめた。「ここにいないということは……つまり、この先にいるってことさ」
「フレッドの言う通り」ジョージが言った。
フレッドがまた先頭を歩き出して、ジョージがそれに続いた。ミラは何度目かのため息をつき、置いていかないでおくれ、と慌てて早足で追いかけた。
部屋の先の行き止まりには、銀の梯子があった。ずいぶんと古く、埃で汚れていたが、長い間地下を彷徨っていたことにうんざりしていたミラは、ようやく地上に戻れると思うと喜びを隠しきれなかった。
「お先にどうぞ」ミラの気持を察したフレッドがニヤッと笑った。そこでミラがまず上がることにした。
ミラが行き着いたのは、それこそ「普通の部屋」だった。一般的な木の床に、花柄のグリーンの壁紙、それに立てかけられている数々の絵画や縄に縛られた大きな布(おそらく中身は石像だろう)――ミラが住んでいるエディンバラの家とよく似ていた。
「ようやっと、だな」
いつの間にか後ろに立っていたフレッドが言った。
「ああ、フレッド」ミラが答えた。「こんなにも『地上』にいることが嬉しく思うことなんて、この先ありえないって気分だよ」
「それはどうかな」
最後に上ってきたジョージが、腕を組んでニヤリと笑っていた。ミラとフレッドが首をかしげると、ジョージはよりいっそうニヤニヤを広げて、後ろを顎で指した。
「何を言ってるんだい?ジョージ」
ミラは爪先立ちをして、ジョージの肩越しに後ろを確かめた。当然、そこにはいましがた使った梯子が目に入ると思っていた。だが、ミラとフレッドが見たものは想像とは大きく違っていた。
「宝箱じゃないか」フレッドがふと眉をひそめた。そこには、たしかにふたの空いたボロボロの宝箱があった。「梯子はどこにいったんだ?それに、この中身は――あ!」
フレッドが宝箱を覗きにいったとたん、大きな声を出した。その声につられて、ミラも宝箱の縁に手をかけて中を覗き込んだ。
「あ!」
見えたのは箱の底ではなかった。代わりに視界に飛び込んできたのは地下へ伸びる銀の梯子――間違いなく、ミラたちが登ってきたものだ――そのさらに奥にはボロの石の床がかすかに見える……。
「どういうことだい?」ミラは動揺しながら言った。「私たちはホグワーツの抜け道からここに辿り着いた。だが、この部屋もまた……ホグワーツにつながる抜け道が隠されていた……」
「ほら、まだまだ普通じゃないよな」ジョージがまたニヤリとした。
「その通ぉぉおおり!」
「うわあっ⁉」
突然、甲高い男の声が部屋中に響いた。ミラと双子の三人は、そろって驚きの声をあげた。
「よくぞここまで辿り着いたものだな。ええ?ホグワーツの――魔法使いの卵――その諸君」
銀色の巻き髪の鬘に、アラベスク模様が入った青い燕尾服を着たゴーストが、三人の前をヒョコヒョコ浮いていた。
「ようこそ、クラッドウェル・アンド・ブリュースターへ!」