真夜中のホグズミード村
渦を巻いていた埃がゆっくりと床に落ちる。
ファスティディオの興奮で張り詰めた沈黙が店中に広がった。彼は大きく肩を上下させて、息を深く吐いた。
ミラはフレッドの制止を無視して立ち上がり、長い髪を撫でつけながら天井をぐいっと見上げた。
「ずっと我慢してたんだろう――いいよ。今夜が、その『月に二度あるうちの最初の日』ってことにしよう」
ファスティディオの動きがぴたりと止まった。
「さて、貴様はさっきから何様のおつもりだ?」ファスティディオはミラをまっすぐ見下ろしている。「お前になんの権限があるっていうんだ」
「権限だって?何の話だい?」ミラはそ知らぬ顔で肩をすくめた。「これは新しい取引だ」
ミラの言葉にファスティディオの宙に浮かんでいた体が、ふわりと下に沈んだ。
「どういうことだ?」ファスティディオは目をしばたいた。「取引?この私がか?お前らみたいな憎たらしいガキと?」
ミラはその通りだというかわりに、目を逸らさず口の端を持ち上げてみせた。ファスティディオは何も言わず、じっとミラを見つめた。
再び沈黙が訪れた。ファスティディオのルビーのように赤い目が、まるで誰か別の人間を見ているように、ぼんやりと揺れていた。今、ファスティディオの視線の奥にいるのは、自分ではないのかもしれない。ミラはふとそんな気がした。
――オフィーリア・クーパー。ミラは、顔も知らない彼女の名前を頭の中で反芻させた。
しばらくして、気まずそうにフレッドが喉を鳴らした。ジョージがミラのセーターの袖を引こうとしたが、ミラは身じろぎひとつしなかった。
ファスティディオはわざとらしい咳払いをひとつして、何事もなかったかのようにゆっくりとまた 宙に浮かび上がっていった。
「まったくアホらしい話だが、まあいい……条件を言ってみろ」
ファスティディオの答えに、フレッドが小さくガッツポーズするのがちらりと見えた。
「条件はたった一つだけだ」ミラは続けた。「これからも、私たちにこの抜け道を安全に使わせること」
「ははーん、違うな。それじゃあ二つだ」ファスティディオは甲高い声で言った。
「どこがさ」ジョージが横合いから口を出した。
「まずは抜け道を使わせることだろ、それから――その道を安全にすること」ファスティディオは目を細めてケラケラ笑った。「ほぅら!二つもあるぞ」
「意地悪しないでおくれ、ファスティディオ」ミラは腰に両手を当てながら答えた。「この抜け道はオフィーリアの置き土産だ、違うかい?」
部屋中に響いていた笑い声が急にしぼみ、ファスティディオはまるでしらけたようにミラたちから視線を外した。
「まあいい。ならばこちらからも条件を付け加えよう。それで平等だ」ファスティディオは続けた。「いいか、ホグワーツにいるピーブズとかいうポルターガイストにこう伝えるんだ。『お前のやってることなんぞ、この私に比べればお遊戯会もいいところだ』とな!」
「いいよ」
ミラはファスティディオに挑戦的な顔をしてみせた。するとミラの脇から、フレッドとジョージもズイッと前に出てきた。二人は、おもしろくなってきたと言いたげに、いたずらっぽくキラキラした目を揃えてファスティディオを見上げていた。
ミラは片方の眉を跳ね上げ、双子に負けないくらいのニヤリ顔をして続けた。
「それならそうと、しっかり証明してもらわなくてはね」
ファスティディオの真っ赤な瞳がぎらぎらと光り、ミラ、フレッド、ジョージを順に眺め、また逆の順で視線を戻した。
「なあに、心配ご無用!明日の朝には、君たちの口が勝手にこの私の名を讃えているさ!」
ファスティディオがわめきながら「クラッドウェル・アンド・ブリュースター」を飛び出していってから、ようやく店内に心地よい静けさが戻ってきた。
「やるじゃないか、ミラ!」
最初に沈黙を破って、ミラの肩に手を置いたのはフレッドだった。
「ああ、最高だったよ!まさに『悪友』の名にふさわしい!」
ジョージもすかさず、ミラの肩に腕を回し、満面の笑みで「悪友」を讃えた。
「小鬼の蒸気機械のためさ」
ミラはぶっきらぼうに言ったが、口の両端がわずかにヒクヒク動くのを自分でも感じていた。
心の奥のどこかが、ふつふつと熱を持っていた。ファスティディオとのやりとりが――あの妙な駆け引きが、思っていた以上にミラの胸を躍らせていたのだ。
フレッドとジョージの言うことに頷くのは癪だった。だが、どうやら知らないうちにあの双子に感化されていたらしい……そう思うと、なんとも言えない気分になった。
やがて、ミラとフレッド、ジョージの三人は、そっと「クラッドウェル・アンド・ブリュースター」の扉を押し開けた。
外はひんやりとした空気に満ちていて、冷たい夜風がミラたちの髪をなぶった。これがミラたちにとって初めてのホグズミードだった。
ホグズミードの通りは、見渡すかぎりひっそりと静まり返っていた。
吹きつける風が、屋根から吊るされた旗をかすかに揺らしている。店のドアは固く閉ざされ、看板だけがぎいぎい鳴っていた。
ミラたちは足音を立てないように石畳の道をそっと歩いた。あたりを照らす明かりの中に、ひときわ目を引く建物があった。石造りの壁に、大きな萱葺屋根、入口には太い梁が斜めに交差するように掛けられており、そこにはなぜか三角型に三本の箒が打ち付けられているのが見えた。
「『三本の箒』――有名なパブだ。ビルから聞いたことがある。なあ、ジョージ」ミラの視線に気がついたフレッドが小声で言った。
「ああ、フレッド」ジョージが囁くように続けた。「美味いバタービールが飲める。体が芯まで温まるんだって、ビルが絶賛してたよ」
ミラはあいまいに頷きながらフレッドとジョージの顔を交互に見た。わずかに上がった口元、きらりと光った目。二人の顔にふっと期待の色が浮かんだのをミラは見逃さなかった。
「……ダメだぞ。ああ、そうとも。絶対に――ダメだ」ミラは低く言い放った。
双子は一瞬、何のことかとすっとぼけたような顔をしたが、すぐに顔を見合わせてニヤリとした。
「おや、まだ何も言ってないのに」フレッドがわざと驚いたように言った。「ミラ嬢は察しがいいな」
「さすが、我らが悪友よ」とジョージ。
「一年生がこんな時間にパブになんか顔を出してみろ、すぐ学校に広まるぞ!」
「おお、そりゃ光栄だね」
しかし、そうは言っても、ミラのごもっともなこの意見には、さすがの双子もこれ以上なにも言い返せなかったようだった。
二人は「三本の箒」に視線を移し、未練たっぷりに見つめた。まるで、目でドアをこじ開けようとしているかのようだ。やれやれ……バターとビールなんて、どう考えても変な取り合わせだと思うんだが……ミラはそう思いながらフレッドとジョージに近づこうとした。そのときだった。
「おやおやおやァ⁉なんて顔してるんだね、君ィ!」
突然、甲高く響く声とともに、何かが木箱を蹴り飛ばすような音がホグズミードに轟いた。
「きゃあ!」
どこかから短い悲鳴があがり、すぐにぱたぱたと走り去る足音が続いた。
三人は騒ぎのする方角に顔を向けた。少し遠くの方に灯りが見えた。お祭り広場のようなところが小さく目に入った。その中で、黒い影があっちこっちと飛び回っている。ファスティディオだ!
三人は逃げ惑う大人たちに気づかれないように気配を殺しながら、反対側の通りへと足を引きずっていった。
三本の箒を背にして、石畳の通りをそっと抜けると、次に異様に赤い建物が目に飛び込んできた。
正面に真っ赤なドア、その上には小さな三角屋根が突き出ており、くすんだ色の旗がぶら下がっていた。
「『スピントゥイッチーズ・スポーツ用品店』だ!」
店の格子窓に鼻を押しつけてまっさきに中を覗いていたフレッドが、興奮まじりの声をあげた。
「マジかよ、おい!」ジョージもフレッドに続いて、窓に顔をぴったりとくっつけた。
ミラも、燃えるような赤毛の隙間から、そっと中を覗き込んでみた。
店内は真っ暗だったが、雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、ほんのわずかに床を照らしていた。埃をかぶったショーケースの中に、いくつもの箒が整然と横たわっているのが見える。その柄はどれも磨き込まれていて、ぼんやりと光を帯びていた。
「なあ、あれ、コメットの新型じゃないか?」とジョージが、声をひそめてつぶやいた。
「見ろよ、あっちにはニンバス1700ときたもんだ!」フレッドが、鼻先が窓に押しつぶされそうになりながら言った。
「やれやれ、アダリンがいたら目を回しそうだ」
「ああ、アダリン選手……この感動を分かち合うまであと二年も待たないといけないなんて!」
双子のどちらかが、店内に夢中になりながら答えた。ミラはやれやれと首を振り振りした。
こうして名残惜しそうにスピントゥイッチーズの窓から顔を離した双子とミラは再び三本の箒まで引き返してきた。道に伸びる影の中を抜け、その先の通りへと足を踏み入れたとき、突然フレッドとジョージが歓声を上げた。
「見ろよ、ゾンコの看板が見える!」
ミラはフレッドの肩越しに身を乗り出すようにしてその先を見た。
目の前には赤茶けた石造りの店がどんと構えていた。風変わりな色ガラスのはまった扉、その両脇の窓には、目玉のような飴やら、爆竹やらが所狭しと並んでいる。
看板には「ゾンコ」の文字が、くすんだ金で誇らしげに刻まれていた。
なにかと聞かなくたってわかった。双子の大本命といったところだろう。
フレッドとジョージは、今度こそ磁石に吸い寄せられた釘のように「ゾンコの『悪戯専門店』」にくっついてしまった。
「クソ爆弾、しゃっくり飴、カエル卵石鹸、それに鼻食いつきティーカップまで……」フレッドが正気を失ってしまったかのようにぶつぶつと呟いている。
しかし、双子がそれ以上ゾンコに長居することは叶わなかった。
ファスティディオの騒ぎが、だんだんこちらに近づいてきたからだ。
「まずいぞ……」ミラは双子の間を割って入っていった。「ファスティディオがこっちに向かってきてる。大人たちもだ!」
「あのポルターガイストめ……」フレッドが腹の底から絞り出すように言った。「よりにもよってゾンコだぞ?他に行くとこいくらでもあるだろ、まったく!」
「あいつ、やりすぎじゃないか?」
「例えばだけど」ミラが答えた。「君たちが何十年も悪戯を禁止されていたとして、それが許された日がもし今日だったとしたら?」
「たまらないね」
双子が同時に言った。妙に納得した言い方だったので、ミラは思わず噴き出しそうになった。
「そういうことさ」ミラは言った。「行こう。きっとファスティディオは取引相手だろうと容赦はしてくれないよ」
「ちょっと待った。鼻食いつきティーカップの細部をもう少し……」
「ホグワーツのガキが、こんなところでなにしてる」
背後から低いしわがれた男の声がした。三人が急いで振り返ると、家と家の隙間からこちらに向かって歩いてくる人影があった。
人影は、街灯の光を浴びて、ゆっくりと輪郭を浮かび上がらせてきたが、少し奇妙だった。浅黒い賢そうな顔つき、先の尖った顎髭、それに、なんと手の指と足の先の長いこと。だがなにより決定的だったのは、男はミラたちより頭一つ分ほど背が低かったことだった。ミラはこの生き物を見たことがある。そうだ、あれはたしか……ダイアゴン横丁の――
「小鬼だ!」
ジョージが、ミラの心の中を読んだかのように叫んだ。
それからは一瞬だった。ジョージが踵を返すのと、フレッドがミラの袖を引っ張るのはほとんど同時だった。誰ひとり何も言わず、三人は石畳の道を一気に駆けだした。ミラは何度も転びそうになるのをこらえながら、ふと思いついたことを隣で走るフレッドとジョージに言った。
「――ねえ、小鬼に蒸気機械のことを聞けないかな⁉」
「きみ、正気か⁉」フレッドがゼイゼイしながら叫んだ。
「いっとくけど」ジョージも息を切らしながら言った。「真夜中のバタービールよりも無謀だぜ、ミラ!」
走って、走って、ようやくたどり着いたのは、薄暗い裏通りだった。その先に、一軒だけ、木の扉が半分開いたままになっている店があった。中からは、ぼんやりとした明かりが洩れている。
ミラは足を止め、一度深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。隣を見ると、フレッドもジョージも同じように息を整えながら、目の前の半開きの扉を見つめていた。
三人はしばし見つめ合ったあと、こくりとうなずいた。次には、誰からともなく動き出し、影のように音もなく扉の中へ滑り込んだ。
中は小さくみすぼらしいバーだった。ひどく汚い部屋で、ヤギのようなきつい臭いがした。
包帯をぐるぐる巻きにした魔法使い、それに爪先まで分厚い黒いベールに身を包んだ魔女……顔を隠した客たちが怪しい液体を飲みながらテーブルで談笑している。ざらざらした木のテーブルの上では、ちびた蝋燭が部屋を照らしていた。カウンターに座っていた大きな頭巾を被った魔女が、入口に立つミラたちを見て、黄色い歯をむき出しにして笑った。ミラたちは慌てて魔女から目をそらした。
バーテンが裏の部屋から出てきて、三人にじわりと近づいてきた。長い白髪に顎ひげをぼうぼう伸ばした、不機嫌な顔のお爺さんだった。
「こんな夜中になにしてる」お爺さんは唸るように聞いた。「ホグワーツの生徒だろう。城を抜け出して、帰り際がわからなくなったか?」
「ち、違うんです!私たち――」
ミラとフレッド、ジョージは小鬼に追われていることを正直にお爺さんに――ときおり言葉を詰まらせながら――話した。お爺さんは眉ひとつ動かさずに三人の話を聞いていたが、やがてふうっと鼻から長いため息を漏らした。
「裏口から出るといい」
お爺さんは呆れたようにそう言った。まるで床に転がる蛙チョコレートの包み紙でも見るような、うっとうしげな眼差しだった。
「ただし、二度と来るな」
そのあとのことは、よく覚えていない。
あの薄汚いバーを出てから、どうやってホグワーツへ戻ってきたのか、はっきりとは思い出せなかった。
ようやく寝室のベッドに横たわり、隣からアダリンの寝言が聞こえたとき、今までの出来事が夢だったんじゃないかというような気がした。
それでも――あの小鬼の目が、まぶたを閉じるたびに浮かんできて、消えなかった。ミラはとうとう、朝日が差し込むまで、一度も眠ることができなかった。